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第12話 桜田伝説その2

2002年11月19日 00:00

第12話 桜田伝説その2

桜田伝説 その2

今回は小桜姫が護王姫の娘だったかもしれないということを語るちょっと難しい話・・
中学生さんが市内巡りの資料にするには向かないかもしれません。
ここで予備知識として時代背景と用語を超簡単に解説!

鎌倉公方(かまくらくぼう):室町時代、関東などを支配した役職。足利尊氏の子、基氏から代々世襲。
関東管領(かんとうかんれい):鎌倉公方を補佐する役職。上杉氏の世襲。

永享の乱(えいきょうのらん):1438年、室町六代将軍足利義教(よしのり)に対し、鎌倉公方足利持氏(もちうじ)が反抗。これをいさめた関東管領上杉憲実(のりざね)と持氏が不和になった。関東一円を巻き込む戦乱に幕府の軍も加わって持氏は切腹させられた。

結城合戦(ゆうきかっせん):1440年、永享の乱で持氏に加担した者たちが持氏の遺児を立てて結城城に集結、幕府方と1年ほど戦い抜いたが翌年全滅した。

嘉吉の乱(かきつのらん):1441年、結城合戦の2ヶ月後、将軍義教が赤松氏に殺された。これにより将軍家の権威は失墜した。

享徳の乱(きょうとくのらん):1454年、鎌倉公方足利成氏(しげうじ、足利持氏の子)が、関東管領上杉憲忠(のりただ、上杉憲実の子)を殺害、幕府と対立して鎌倉を脱出、古河にとどまり古河公方と呼ばれた。幕府は新たな鎌倉公方として足利政知(まさとも、義政の弟)を任命するが抵抗勢力のため鎌倉に入れず、伊豆堀越(ほりこし、ほりごえともいう)にとどまって堀越公方と呼ばれる。また関東管領家も山ノ内(やまのうち)上杉と扇ガ谷(おうぎがやつ)上杉が対立。これによって関東は戦国状態になる。ちなみに歴史の教科書には戦国時代は応仁の乱(1467年)から始まると書かれているが、それは関西方面の話であって関東は10年以上早かった。

〔復習、護王姫について〕

バックナンバーを見ていただければいいのですが、以前護王姫には3つの異なる伝説があると書きました。しかし本当は他にも似た話がいくつもあります。その中でまめこぞうは一色伊予守六郎の妻説を支持しています。今回は一色説だけを取り上げて考えます。
永享の乱後、一色伊代守は鎌倉を脱出、これが不穏(ふおん)であると幕府軍に海老名の今泉屋敷を包囲されますがすでにそこも脱出、結城に参陣していました。屋敷に残された者も敵前で脱出をはかりますが逃げ切れず討ち死にし、妊娠中の妻「護王」は産川で出産、その後座間の地で亡くなりました。その地に建てたのが護王姫神社と言われています。亡くなったのは永享十二年(1440年)です。

〔復習、渋谷高間について〕

前回のお話、主人公とも言える渋谷高間ですが、龍源院に伝わる話ではこの人の屋敷は「丸山下」(まるやました)にありました。諸国を回って修行しているうちに家族がみな死んでしまい、屋敷を寺にしたのが寛正(かんしょう)二年(1461年)です。

ここから今回の本題・・・

〔護王姫神社は高間の屋敷だった〕

地図を見てください。護王姫神社の横を南北に通っているのが鎌倉街道です。これは鎌倉時代から室町時代にかけての座間のメインストリートでした。護王もここを通って逃げてきたわけです。まめこぞうは護王姫の伝説の回で、姫は野中で死んでいったと書きましたが、まったく違うかもしれません。高間の屋敷があった丸山下というのはなんと護王姫神社も含めてこの街道の東側一帯なのです。ということは護王が死んだと言われる地は、高間の屋敷の一部か屋敷のすぐ目の前なのです。これは衝撃的でした。

〔年代を逆算〕

高間は修行の旅から帰って初めて一家の惨劇を知り、その後に屋敷を寺にしたのですから、惨劇は1461年より少し前です。仮に1450年代後半としておきましょう。その惨劇が起きたとき、はたして小桜姫が何歳だったのかまったく伝わっていませんが、おそらくティーンエイジだったと考えてみましょう。するとどうです?小桜姫が生まれたのはちょうど1440年頃ということになりませんか?それは護王が赤ちゃんを産んで亡くなった年です。
ほーら、難しい話に飽きていた人もここまで来るとわくわくしますでしょ?

〔ここに屋敷があった証拠〕

では屋敷について考えてみましょう。ここに高間の屋敷があったのではないかと思える証拠がいくつかあります。

その1 土塁(どるい)
護王姫神社の周りは周囲より高くなっています。これは入谷バイパス(大きい道路)を見れば一目瞭然です。明治時代に撮られた写真を見てもここはかなり盛り上がっています。自然のものではありません。屋敷の防衛施設としての土塁と思われます。

その2 地名
このあたりの土地の名は「上の屋敷」と言います。これは必ずしも高間の屋敷を指す名ではなく、鎌倉時代からこのあたりに集落があったことを示すものと言われています。初め台地上にあった集落がやがて低地におりて広がっていったため、上の屋敷というのでしょう。

護王姫神社:道より神社周辺が盛り上がっています。

一般人の集落を屋敷と呼ぶことはめずらしくないかもしれませんが、屋敷と言われるだけのものがあったと思えるのです。



その3 地形
ここは鎌倉街道に沿って交通の要衝であっただけでなく、北西南の三方を川と崖でさえぎられた台地上であり、中世の防衛施設としては立地条件がかなりよいと思われます。

北の崖:近年宅地開発で手を加えられましたがもともとかなりの急傾斜地でした。

南の崖:いまだに昔のまま急斜面を保っています。


その4 矢竹(やだけ)
この北側の崖には矢竹と言われる竹がたくさん生えています。この竹は枝分かれせずまっすぐ2mほどの高さに伸びるため、刈り取って矢にしました。自然に分布するものではなく、中世は屋敷の周辺にこれを植え、平時から矢作りをしていました。これがたくさん生えているということは、ここに中世の屋敷があったことを強く物語ります。
ただ市内にはここだけではなく矢竹の生えている場所が何カ所もあります。まめこぞうはこれらの多くが中世の館などの跡ではないかと考えています。たとえば丸山下とは小川をへだててすぐ南側の心岩寺墓地やひまわり公園の谷などです。

その5 若林大炊之助(おおいのすけ)の屋敷跡
護王姫神社の西側、崖のふちに小さな稲荷があります。若林稲荷と土地の人は呼びますが、このあたりに戦国時代末、若林大炊之助という小田原北条氏の家臣が住んでいました。この大炊之助が龍源院を現在の地に移したと言われます。ならば高間の屋敷は大炊之助の屋敷とは重ならない範囲であってなおかつこの近くにあったはずです。

若林稲荷:昼でも薄暗く、まめこぞうでもちょっと怖いです。

ただしこれらの証拠が渋谷高間の屋敷と断定できるほどのものでないことは認めます。中世の遺物が出土すれば話は変わってきますが・・
まめこぞうは数年前、海老名市内にある大谷氏の館跡で中世の火鉢の破片を見つけました。丸山下にもそんなものはないかと歩いてみたのですが、縄文土器や石器は落ちていても、中世を示すものは見つかりませんでした。

〔護王の身柄は〕

次に護王のことを考えてみましょう。護王がここにたどり着いたとき、屋敷側はどう反応したでし?。関東中を巻き込んだ戦時です。門前に他家の姫が逃げてきたことに気がつかないはずがありません。ならば護王と高間が直接出会った可能性も出てきます。伝説通り、すでに生んだ子は殺されて護王もここで息を引き取ったというならこの話は終わってしまいます。しかしもし護王が胎児とともに高間の屋敷にかくまわれたとしたら・・・高間の「先妻」とはひょっとして護王だったのかもしれません。たとえ結婚していなくてもそこで生まれた子を「先妻の子」と呼んだのかもしれません。では護王は?傷を負っていたかお産のために亡くなったのでしょうか・・いや、まめこぞうは護王が生きていたのではないかとさえ思うのです。

〔高間の出家〕

では次になぜ高間が急に世を捨てて出家し、諸国行脚に出たかを考えます。渋谷一族は広くこのあたりに住んでいて高間はその1人にすぎません。すぐそばの在宗仲寺(そうちゅうじ)が建つ場所にも当時渋谷内膳という人が屋敷を構えていました。いずれまた宗仲寺の項でお話ししますが、この地も相模川に沿った交通の要衝で、川と崖に守られた防衛拠点でした。
しかし応永23年(1416年)の戦乱(または永享の乱の時という説もある)でここは戦火に焼かれ何も残らなかったと伝わっています。高間は目の前で一族の敗戦を見ているわけです。いや、ひょっとすると内膳は高間の父だったかもしれません。そう考えると高間が幼くして両親を亡くしている記述と合致します。
話はかわりますが結城合戦の直前、結城を攻めることに反対した者が数人出家して参戦を拒みました。合戦が終わったあと、勝者であるはずの上杉憲実は自殺しようと腹を切りますが止められて助かっています。結城合戦で持氏の幼い遺児までもが殺されたことに対して自責の念からの行動と言われています。そんな憲実も1449年、関東管領職を息子憲忠に譲り出家、諸国行脚に出ます。この年に持氏の末子、成氏が鎌倉公方になったからです。いくらなんでも上司を殺した自分がその上司の子に管領職として仕えることはできなかったのです。
このあと1454年に享徳の乱が起き、成氏が憲忠を殺害します。もちろん親の仇の子だからと言う理由です。このころの戦いには正義も何もなく、ただうらみやらメンツと言ったようなことだけで君臣も一族も関係なく殺し合うものとなってしまいました。これが戦国です。この状態を嫌った心あるものは出家することが多かったようです。
さて前説が長すぎましたが高間は享徳の乱後、古河公方と堀越公方、山ノ内上杉と扇ガ谷上杉といった大勢力の間でどちらかに味方すれば他方に攻められるという微妙な立場にあったはずです。そこで戦って滅ぶより出家の道を選んだのではないでしょうか。鎌倉公方と関東管領の勝手な争いに一族が巻き込まれて苦しんだ彼の心中は現代でも察することができそうです。それとも高間は憲実といっしょに諸国を回ったのでしょうか・・・憲実が行脚の末に周防の大内氏のもとに身を寄せた頃、高間が座間に戻ってきているらしいのです。

〔小桜姫と後妻の死〕

高間の留守中、残された屋敷の者たちも大変微妙な立場にあったと想像されます。そんな中、もし小桜姫がかつて結城合戦の首謀者でもあった一色伊代守の娘だとしたら・・家としての中立は保てなくなります。そこで家老が絞め殺さざるを得なかったのかもしれません。
急に長女が死んだ理由をどうつけるか・・これをすべて後妻のせいにして関係者を皆亡き者にした、いや後妻が護王その人だったら・・・・?
先妻と後妻が同一人物というのはおかしいですが、小桜は一色伊代守六郎と護王の間の子、よってこれを高間が引き取るにあたって「先妻の子」と称し、そのまま屋敷にとどまった護王は六郎亡きあと高間と結婚し、これを後妻と呼んでこの間に生まれた子が小柳姫だとしたらつじつまが合ってくるのです。そうしたら二人の姫は異母姉妹ではなく同母異父姉妹ということになります。
まめこぞうは主人の帰りを待たずにあわてて消された女性たちの秘密をあれこれ想像するのです。

〔南総里見八犬伝〕

あの有名な八犬伝は江戸時代中頃、滝沢馬琴によって書かれました。もちろん虚構の物語ですが、結城合戦から始まり、関東戦国の中、二人の公方と上杉氏に翻弄されつつも不思議な縁のもとで活躍する八人の主人公たちを描いています。その物語中の時代がまさに今回ここで取り上げている桜田伝説と一致しているのです。この八人の生い立ちや境遇こそ、高間にも共通するものがあります。(まめこぞうは昔NHKの人形劇で見た覚えがありますが、扇ガ谷上杉が敵役でしたっけ。)今この文を書きながらあらためて本物
の南総里見八犬伝を読んでみようかと思うのです・・・

〔終わりに〕

今回の話はちょっと攻撃的です。おそらく厳しいおしかりの言葉が雨あられ・・それは覚悟の上です。確証はないということを読者のみなさんがよく認識しておいてください。インターネットにはこういった不確かな情報を載せることがよくないとされています。ただ、次の研究者に提案するためにあえて書きました。将来こういった視点で研究が進み、これが事実に近いものであったということが証明されたらとてもとてもうれしいです。
こんなローカルな話、本気で研究する人はいないかな?でもメールでご意見をいただければ幸いです。
それではNHK「そのとき歴史が動いた」のエンディング風に・・・・
小桜姫の墓といわれる塚にはかつて長禄(ちょうろく)二年(1458年)と刻まれた板碑(いたび:死者を供養するために作られた平べったい石の塔)があったそうです。高間が屋敷を寺にする3年前にあたります。これが小桜をとむらうために建てられたものだったのか、またそれを建てたのは誰だったのか・・・それを思う我々の前に、小桜、小柳、そしてその母の三人の身に起きた真実を語る者はいません。

まめこぞう

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