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第15話 高座海軍工廠 中編

2003年03月26日 00:00

第15話 高座海軍工廠 中編

高座海軍工廠 中編 

「ゼロが飛んでる!」
「何だって?」
「三菱のゼロだ!」
1980年のアメリカ映画、ファイナルカウントダウンの中にそんなせりふがあったと記憶しています。当時最新鋭だった空母、ニミッツがタイムスリップして真珠湾奇襲攻撃にでくわすというまったく意味のないSF映画でしたが、このせりふでまめこぞうは零戦が三菱重工によって作られた物であることを初めて知ったのでした。(戦勝国の描く敗戦国の姿は見るに耐えません・・)
今回の主役は零戦ではなく、前回に引き続き「雷電」とそれを作った人々です。

■雷電の生産

 雷電については前回にも書きました。本格的に生産されだしたのは昭和19年10月ごろらしいのですが、さまざまな資料があり、まめこぞうにはよくわかりません。運動性度外視速度重視の迎撃戦闘機であり、「局地戦闘機」と呼ばれました。

 それまで海軍では航空機の採用年度をもってその航空機の名称にしていました。たとえば昭和3年採用の三式艦上戦闘機などがあります。昭和4年からは昭和ではなく皇紀(こうき:若い人は知らないですよねぇ)の下二桁をつかうように変わりました。そして皇紀2600年の昭和15年からは下一桁をつかうこととなり、その年に採用されたのが零式艦上戦闘機、零戦です。しかし昭和18年からはこれをやめ、数字ではない名前を付けるようになりました。製造年から性能が漏れるのを防ぐためだそうです。(そんなものでしょうか?)
戦闘機は気象に関係ある名前がつけられることになりました。そして誕生したのが雷電だったのです。もともと一四試局地戦闘機(昭和14年に開発が始まった)と呼ばれていたのですが数字ルールが続いていたら「三式局地戦闘機」(昭和18年、皇紀2603年に正式採用された。)とか呼ばれたのでしょうかね。
 雷電の生産機数は資料によりさまざまですが、野原茂著「海軍局地戦闘機」(光人社)には「128機」と書かれていました。これが一番信頼できそうな数字です。
工廠がスタートしたのが昭和19年の5月で実質的には1年ほどしか稼働していなかったのですからしょうがありません。しかも時々空襲があり、生産はストップしたといいます。
 話はそれますが、雷電の設計も零戦と同じ三菱重工でした。戦後のYSー11もそうです。今に至っては世界に誇れる国産ロケット、H2A(エイチ ツー エー)も三菱が大きく関わっています。

■雷電を作った人々

 ここで働いていた人は1万人近くもいました。しかし日本の命運をかけたこの大工場で働く人の多くが今なら中高校生ぐらいの少年達で、特に台湾から来た少年達が8割をしめていました。当時、台湾は日本の一部だったからです。

 この台湾の少年達は台湾現地の国民学校高等科(現在なら中学校)の生徒の中でも優秀な者が選ばれ、教師の推薦で内地に希望を持ってやって来たといいます。なぜなら内地では働きながら勉強もでき、さらに賃金がもらえて資格も取れる、数年勤務したら上位学校の卒業資格ももらえるとふれこまれていたからです。
しかし実際の勤務はかなりきびしいものでした。大和市の上草柳(かみそうやぎ)に宿舎が作られ、そこから高座海軍工廠に通っていましたが、働くだけで勉強はできませんでした。資格の取得など口にも出せなかったそうです。多くの少年が「だまされた」と思ったそうですが、これはたしかに軍の策略かもしれません。しかし昭和19年5月と言えば日本はすでに追いつめられており、その直後、7月にはサイパン守備隊玉砕、米軍グァム上陸、10月「I shall return!」と言ったマッカーサーの言葉どおりフィリピンに米軍上陸、11月東京空襲始まる、翌3月には東京大空襲・・・とても悠長に「勉強して資格を取って」などとは言っていられない時代だったのも事実です。

 そのあたりの詳しい話は私のような者が語るよりご本人の言葉を読んでみてください。インターネットで「高座海軍工廠」をキーに検索すれば台湾少年工の話が本当にたくさん見つかるはずです。
 大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん)、八紘一宇(はっこういちう)、五族協和(ごぞくきょうわ)といった理想はかなり偏った結果になってしまったのですね。え?何のことだかわからない?これは辞書で調べてください。でもそんな日本に感謝してくれる台湾のもと工員の方もいらっしゃいます。ちょっと工廠の話とは違うのですが、戦後台湾を訪れた我が師の大学教授は見ず知らずの家で「日本には大変お世話になった」と歓待を受け、とまどったと言ってました。悲しい歴史の中でわずかに救われる思いがします。

■なんと三島由紀夫さんもいた

 働いていたのは台湾の人達だけではありません。もちろん内地の人々もいました。
近くでは厚木中学(現厚木高校)、厚木高女(あつぎこうじょ:厚木東高校)、藤沢高女(湘南高校)などの生徒が勤労学徒として動員されました。これらの人々も勉強どころではなかったのです。
学習院高等科を首席で卒業し東京帝国大学の法学部に入学した優秀な学生が、昭和20年の5月に工廠の寮に入っています。三島由紀夫さんです。
具体的に何をしていたのかはよく知りません。ところが彼は寮にいながら数多くの短編小説等を書いているのです。まさに終戦直前という時期に!
もっと不思議なのは20年の7月ごろは能楽や近松の世界に親しんだと言われます。8月15日には熱を出して世田谷の親戚のうちに行ったところで終戦を知ったそうです。生活に余裕がなかったと想像される少年工達とはだいぶ違ったイメージを持ちます。
ちなみに三島さんは応召(おうしょう:招集を受ける)の入隊検査で不適と判断され、失意の末ここ高座海軍工廠にやってきました。軍医の誤診だったと言われています。そんな体験があのすさまじい死につながるのでしょうか。

 もう一人有名な方がいました。こちらは日本大学農学部に入学したばかりの学生で、工廠付近で畑を開墾し、サツマイモを作るのが主な仕事でした。それが終戦後は同大学の水泳部に入部し、さらに昭和23年には日本がオリンピック参加を許されなかったにもかかわらず、驚異的世界記録を
樹立し24年にはロサンゼルスの全米水泳選手権でまたまた世界記録を出し、「フジヤマのトビウオ」と称されたあの古橋広之進さんです。最近ではJOC日本オリンピック委員会の会長でもありましたね。たぶん古橋さんが耕していたのは今の東原あたりではないでしょうか。

■雷電は飛んだのか

 このころの日本はもはや国外から物資を運んでくることができなくなり、戦闘機や砲弾は国内にあるありとあらゆる金属を集め、再利用せざるをえなくなっていました。このような目的で金属などを集めることを「軍事供出」(ぐんじきょうしゅつ:ただ供出ともいう)といいました。供出された物資は、家にある鍋やお釜をはじめ、太いくぎやお寺の釣り鐘などもありました。この工廠で使っていた材料が供出されたものかはわかりませんが、機体を作るジュラルミンやそのまた原料のアルミニウムなど、当時は家庭にある物ではありませんでした。南方から運んでくるにもすでに海路は絶たれていましたから入手できない状態でした。

 材料がそろったとしてもそれを組み立てていたのは少年達です。高座工廠で働いていた少年達はまじめで、専門家よりも作業能率はよかったと伝えられています。しかし少年です。「今とは鍛え方が違う」「みんなお国のために必死で頑張った」といっても高い技術を持っていたとは考えられません。
 ちなみに、完成した雷電の一号機は試験飛行中に空中分解し、墜落しました。この時の操縦士は運良く脱出できましたが、これでは敵機を迎え撃つのにちょっと不安がありますね。

■空襲

 ここは当然のように米軍からの空襲を受けました。その詳細は調べ切れていませんが、作業が中断してしまうので地下に工場を造ったほどです。これは次回にまた詳しくお話ししましょう。
ここで働いていた少年達は国内の別の工廠にも派遣されました。どこの工廠も空襲を受け、かなりの人が亡くなりました。まめこぞうはその空襲を目の前で見た元工員さんから直接話をうかがいました。
この方は空襲警報が鳴ったので友達と一緒に走って逃げていたらすぐ後ろに爆弾が落ち、爆風で吹き飛ばされてしまいました。一瞬何が起きたのかわかりませんでしたが、立ち上がって後ろを振り向くと友達がいません。そしてあらためてまわりを見ると木の枝にピンクの花がたくさんさいていました。なんてきれいなんだ…と見とれてしまいましたが、その木はピンクの花を付けるものではありません。ふと我に返ってよく見ると、それは爆撃によって飛び散った友達だったのです。粉々になった身体中の肉や内臓が、木一面にはりついたり枝に突き刺さっていたのです。(これは高座工廠の話ではありません)
戦争は美しくありません。お亡くなりになった方々のご冥福を祈ります。

■終戦

 工廠がスタートしてわずか1年3ヶ月後、戦争は終わりました。厚木基地における負けを認めない一部の軍人による行動は有名ですが、この人達は基地内の航空機を数機、米軍進駐前に移動し、森の中に隠しました。その場所が現在のひばりが丘高校のあたりだったそうです。結局それらは使われることなく陸海軍とも武装解除され、高座海軍工廠は徹底的に破壊されました。そのときの瓦礫(がれき)が東原に埋められていると聞きました。
 試験滑走路にはやがて用水路が造られ記念の桜並木も誕生しました。(このまめこぞうの旅、第2話をご覧下さい)また桜の季節がやってきました。この花を理想として散っていった人々がいた時代を思い、今年もお花見に行って来ようと思います。

戦後、米軍によって撮影された工廠の航空写真。
建物はまだありますが、このあと破壊されました。
電車の引き込み線も見えます。

まめこぞう

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