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第19話 日本武尊

2003年10月01日 00:00

第19話 日本武尊

日本武尊は座間を通過した?

 古事記、日本書紀には実に多くの神や人物が登場しますが、その中でも悲劇の英雄として忘れられない存在、それが日本武尊(やまとたけるのみこと)です。日本武尊は西に東にかけめぐったと伝えられ、全国にたくさんの伝説を残しています。
座間市には特に日本武尊にまつわる話が残っているわけではないのですが、まめこぞうは日本武尊が座間の地を通ったのではないか、しかもあの有名な草薙の話は座間で起きた出来事ではないかと思っているのです。

古事記に登場するヤマトタケルの物語の一部

景行天皇(けいこうてんのう:二世紀ごろ?の天皇)の子である小碓皇子(おうすのみこ)は父や兄に命ぜられて九州のクマソ一族を討ちに行きました。小碓は敵のリーダーであるクマソタケル兄弟に女装して近づき、すきを見て剣で刺しました。刺されたクマソタケルは小碓の勇気をたたえ、自分の名であるタケルを名のるように言い残して死にます。
これによって九州地方を平定した小碓は父のいる大和に無事帰ったのですが、父達は小碓に休む間も与えず、再び東国へ行ってヤマトに従わない者を討つように命じます。
小碓は父が自分に死ねと言っているのも同じだと嘆きますが、おばのヤマトヒメノミコトから火打ち石の入った袋と剣(三種の神器の一つで天皇家にとってはとても大切な剣。スサノオノミコトがヤマタノオロチの体内から取り出したという)を与えられて励まされました。
東国へ向かった小碓は相武国で(さがむのくに:現在の神奈川県あたり)ある国造(くにのみやつこ:その地方の豪族)に出会います。国造は
「野原の中に大沼があり、そこには荒々しい神がいます」
と言って小碓にそこへ行くようにすすめました。小碓が野原に入ると国造は周囲に火を放ち、小碓を焼き殺そうとしました。ワナだったのです。

小碓は持っていた剣で自分のまわりの草をなぎ払って安全地帯を作り、逆に火打ち石でその外側に火をつけることで安全地帯を広げてゆき助かりました。そのあと小碓たちは国造達をみな斬り殺して、死体を焼き、その場所をヤキツと呼びました。

またこの時の剣は「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)と呼ばれるようになりました。ただし古事記では初めからこの剣を草薙剣と呼んでいますが、本来はヤマタノオロチからとりだした剣は「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ)と呼ばれていました。そしてこの火攻めの話は一般に「草薙伝説」と呼ばれるようになりました。

日本書紀では話が違う

同じ話を書いているはずの日本書紀ではおよそのストーリーは古事記のものと似ていますが、国造は沼の神ではなく鹿を見に行くようにすすめています。また、その場所は駿河の国と書かれています。このことから現在ではタケルが火攻めにあい、相手を殺して焼いたヤキツは静岡県の焼津(やいづ)であるとされています。焼津には草薙という地名もありますし、また日本武尊にまつわる神社や史跡がたくさんあります。

相武か駿河か

ヤキツは古事記では相武国、日本書紀では駿河国にあるとされています。駿河の焼津は文字から見てもヤキツにまちがいないとされ、するが説が圧倒的に有利となっています。
しかしまめこぞうは相模の人間ですから自分に都合のいい相武国説を信じます。
(この部分、すごい書き方ですね。何の説得力もありません・・が、もうちょっと読んでください・・)

相武なら舞台はどこか

相武国が正しいのなら当時の海岸線は現在の厚木市の少し南にありましたから(鈴鹿明神の回を参照)タケル達は足柄峠(あしがらとうげ)から松田、秦野、伊勢原、厚木と古代の東海道(ひがしのうみつみち)を進んだと思われます。この古代の東海道は旧国道246号線に近いところを通っていました。

海老名市に残る古代の東海道
(海老名市国分寺台)

写真の中央、草が生えている部分。
写真の手前から舗装道路を直角に横切っています。

もはや10mほどしか残っていません。
その先は宅地開発でつぶされています。

この道筋近くで大沼という沼がある(または大きな沼がある)野原とは相模野(さがみの:相模原市や座間市の台地を呼ぶ地形学用語)しか考えられません。相模原市の中心あたりについ最近まで大沼という沼があったのです。現在は宅地化されてしまいましたが地名として残っています。相模原市東大沼の地図を見ると道路が輪を描いていて、かつてここが直径数百mにもおよぶ円形の沼地であったことがわかります。

左の地図は大沼の跡です。
円の北のふちに大沼神社があります。
この神社と座間市との関係もまたいずれ・・

 相模野台地の上は現在でも一部が野原になっていますが、古くは人の住むところではありませんでした。飲み水がないからです。では国造はどこに住んでいたのでしょう。
当時の人々は水田を中心に生活していました。とすれば相模川周辺が一番可能性が高いでしょう。現在の厚木、海老名、座間の低地のどこかです。かなり大きな古墳群が存在することから考え、相模川中流域における当時の文化・政治の中心は海老名か厚木にあったと思われます。国造は海老名にいたのでしょうか?

ヤキツはどこ?

 この「草薙伝説」が相武の国で起こったとすると一つだけ説明できない重要なことがあります。それはヤキツの位置です。このあたりにヤキツという地名がないのです。
しかしまめこぞうはどこまでも自分勝手に自分の都合がいいように想像をめぐらせるのです・・・
ヤキツがやがてアキツと発音されるようになり、これがアツキに変化したと・・
そう、ヤキツは厚木だと・・

実は厚木の地名の語源はわかっていません。川をつかって木を集めた集積所だったから「あつめぎ」と言われ、それがなまったと言うのが定説のようですがこれだって無理がありませんか?
ヤキツはただ焼いた土地というだけでなく、「ツ」は津、すなわち船のとまる場所を表すはずです。厚木が相模川流域で最大級の町になったのは陸上交通と水上交通の要であったからです。当時の相模湾から川をさかのぼって来る水上交通路を考えても、船が停泊する津と言えるのは厚木だけだったでしょう。厚木は津です。

ヤキツと草薙の地は違う

ヤキツはタケルが草を薙ぎ払った場所と思われがちですが違います。記紀のどちらの話も火攻めにあったあと、怒って相手を斬り殺し、焼いた場所がヤキツであると書かれています。ヤキツと火攻めの舞台は少し離れているのです。ではそれはどこか・・ ヤキツが厚木か海老名のあたりだとするとそこから相模原の大沼に向かったとして周りが草原だったところと言えば火攻めは相模原から座間にかけての台地上でしょうね。
まめこぞうはそのあたりに家がなかった頃を知っていますが、見渡す限りすすきの原で、方向さえわからなくなるような所でした。さらに2回ほどそのススキの原が火事になって燃えているのを見たことがあります。たかがススキと思うでしょうが、その赤黒い炎は激しく渦巻き、高く立ち上っていきました。ここで四方から火をかけられたら・・・古事記に書かれた緊迫の場面が目に浮かぶようです。

昭和47年頃の相模原市新磯野(あらいその)
(相武台駅北方)
まだ家は建っていません。
ひたすらススキの原と桑畑が続いていました。

キャンプ座間の向こうに大山が見えます。

厚木も草薙の地の可能性が

草薙の地は相模であるとする説はもう一つあります。それは厚木です。
この説はまめこぞうがたてたものではなく、かなり前から発表されています。
火攻めの話の次に東京湾を横断するとき、嵐を鎮めるために海に身を投げたミコトの妻、オトタチバナヒメノミコトが最後にうたった「さねさし相模の小野に燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも」といううたからみて、草薙の地は相模の小野であるというのです。厚木には小野橋(おのばし)という地名があります。
足柄峠を越えたミコト一行が平野に出たところ、ちょうどそこが小野橋なのです。

しかし古事記にある「小野」の「お」は、「野」に対する接頭語で「小野」という固有名詞を表すものではないと言う説も強く、小野という地名のない座間方面が草薙の地であってもいいことになるわけです。

座間と草薙

 そして不思議なことがあります。相武台前駅のあたりに「草薙」というお名前の家がいくつもあるのです。(相武台という地名が相武国と偶然一致しますがこれは昭和天皇陛下が命名なさったもので、古事記とは無関係です。)全国でも珍しい姓なので専門家が草薙家に調査に来たこともあるそうです。なぜこのあたりに草薙さんが多いのか、本人にもわからないそうです。ひょっとしたら・・・・

おまけ

まめこぞうは子供の頃、諸星大二郎さんの書いた「暗黒神話」というマンガを読んで強い衝撃を受けました。主人公の少年の周囲で起こる数々の怪奇な事件や不思議なものがすべて一つに収束し、さらにヤマトタケルノミコトをめぐって壮大な話になっていくのです。
これを読んでしまったために地方のマイナーな歴史に興味を持つようになり、それがこの「まめこぞうの旅」を書くきっかけとなったのです。
そして大人になった今、タケルに少しでも近づきたくてタケル達が通ったであろう道筋にわざわざ引っ越してきたのです。自分だけのロマンを抱いて・・

第18話 座間遊園地

2003年09月01日 00:00

第18話 座間遊園地

小田急座間遊園地


座間駅の東側はすぐに丘陵がせまっていますが、これを越えた入谷4丁目や立野台2丁目はかなり宅地化され、市内でも有数の人口密集地になっています。昭和二年(1927年)の地図を見ると、ここには「小田急電鉄座間遊園地」と書かれています。小田急電鉄はここに向が丘遊園のような遊園地をつくる予定だったのです。

■遊園地の範囲はわかりやすい


 新旧2つの地図を比べると、遊園地の予定地が現在のどこだったのかはっきりわかりますね。
座間市のまくらことばが「坂と屋根の町」ですが、この一帯はまさに坂だらけ。どちらに行くにしても急な坂を越えなければなりません。小田急電鉄としてもこのような土地を宅地にして乗降客を増やそうとは考えなかったはずです。(中央林間などは林間都市計画としてかなりはやくから住宅地にする計画でしたが、あちらは土地がほとんど平らです。)
ここは座間遊園地予定地とされた当時、現在の谷戸山のような場所だったはずです。それはたしかに遊園地にしたほうがおもしろそうでしょう?

■まめこぞうの遊園地計画


もし遊園地になっていたら‥駅前の交番あたりが正門で、急坂を登り切った老人憩いの家あたりに大観覧車。これは座間市すべてだけでなく、天気がよければ富士山や伊豆大島も展望できます。スーパー三和のあたりにレストハウス、ここなら駅の方も座間ハイツの方の谷も一望できます。そして座間ハイツの低いところに池をつくり、丸太のジェットコースターがザバーン‥なんて想像すると楽しいですね。ちなみに立野台小学校は大駐車場かな・・

■不況と戦争でぽしゃる


 先ほどの地図が書かれた昭和2年、せっかく関東大震災のダメージから復興した日本は金融恐慌に突入、さらにこれから数年の間にアメリカから始まった世界恐慌、昭和恐慌と続いて国全体が、いや、世界中がぼろぼろになっていきます。そんな状態と無関係ではなく日本も他国も戦争へと突入していきます。
そしていよいよ廬溝橋事件を発端として日中戦争が始まった昭和12年、小田急電鉄は駅名を「座間遊園」に改称しましたが実際には遊園は作られず、ドイツがポーランドに侵攻して第2次世界大戦が勃発した昭和14年、ついに座間遊園計画はあきらめられたのでした。

■その後の変遷


 嘘も本当もいろいろな計画があり、そのために莫大な損をした方もいらっしゃったとか・・詳しくはふれませんが、最後には大手宅地開発会社の手により、現在の町が作られました。ただ、なぜか道路は定規で引いたように(たぶん地図の上で本当にそうしたのでしょうが)ほぼ正確に東西南北まっすぐで、しかも地形を全く無視して作られています。京都のように平らな土地なら何の問題もないことですが、ここは座間の中でももっとも起伏がはげしいところ。それでも強引にまっすぐつくられた道路は必然的にかなりの急勾配になります。特に入谷4丁目の東側は傾斜がきつすぎて自動車が通り抜けられる道が一つもありません。すべて階段になっています。この意図についてはまめこぞうはまだしりません。

■座間遊園のなごり?


 その階段ですが、昭和四十七年(1972年)まめこぞうが偶然ここを通ったとき撮った写真があります。2つの写真はまったく同じ場所です。まるで「○どもの国」みたいでしょ?実際、当時このあたりには森の中に家が点在しているだけで、現在の立野台2丁目もただ森が続く小高い山でした。ちなみにこの山、江戸時代の鷹狩りに関係あったのですがそれはまたいずれ・・

■座間と言えば観光芋掘り


 まめこぞうはこの地元の育ちではありません。都内から小田急電車に乗って「観光芋掘り」に来たのです。(けっこうとしだとばれますね・・)芋掘り会場は立野台小学校(当時はなかった)東側、現在の立野台1丁目あたりでした。
秋になると新宿駅なんかで大々的に「いも掘り」「座間往復」なんて垂れ幕がかかげられてお客さんがぞろぞろ来たんですよね。ちなみにまめこぞうの友達で座間出身者と綾瀬出身者がお互いをばかにし合っていたとき、
「綾瀬の子供は豚っこじゃないか!」「座間だっていもっこだ!」
横浜のはまっことは全くの別世界です・・
今でも綾瀬の豚は有名ですが、座間ではもうサツマイモをほとんど見なくなりましたね。まだほんの少しだけ栽培されていますが「観光芋掘り」はいつなくなったのでしょう?

■座間遊園の碑


座間駅から三和の方にのぼる坂の途中に「座間遊園の碑」がありました。そこには遊園に関わる歴史が書かれていたそうですが、行方不明になっています。どこにあるのでしょう?

■座間駅名のうつりかわり


 時代とともに駅の名も変わりますが昭和2年7月、最初にこの駅ができたときの名は「新座間」でした。現在の相武台前が先にできていてそちらの名が「座間」だったからです。地名的には逆ですけれどね。
昭和12年7月、「座間遊園」に改称しましたが、昭和14年、座間遊園地計画をあきらめ、昭和16年(1941年、太平洋戦争が始まった年)10月、現相武台前が「士官学校前」に改称されたことによりこちらが「座間」になりました。このへんの改称にも戦争が大きく関係しているわけです。

それにしてもまぎらわしい駅名は困りますね。当時座間駅と新座間駅が隣り合っていて間違える人は少なくなかったのではないでしょうか。今だって新百合ヶ丘とか新松田なんてまぎらわしいです。厚木なんて海老名市にあるのに断固改称しませんね。厚木駅の方が先にできたのだからしかたなかったとはいえ、地理に詳しくない人にとっては本当に困ります。
そういえば新原町田なんて懐かしい名前・・知ってる人も少なくなってきましたね。

第17話 地下の空洞

2003年05月25日 00:00

第17話 地下の空洞

地下の空洞   地下工廠はもっとある!


 大きな建物を建てるとき、前もってその場所の地下構造を知っておくために直径10cmほどの穴を垂直に掘り、その土を取り出して分析します。これを「ボーリング調査」といいます。
市内であるビルを建てるとき、事前のボーリング調査中に地下14mのところで高さ3.2mもある空洞にぶつかってしまったのです。SF映画ではありません。事実です。

■地下壕の跡か?

 ボーリング調査の報告書を見て下さい。左の数字が地表からの深さ、次の数字がその層の厚さを表していますから、地下13.95mから17.15mの間、3.20mが空洞ということになります。
説明として「旧防空壕の跡と思われる」と書いてあります。旧防空壕とは太平洋戦争中に空襲を避けるために掘られた穴のことです。普通、個人の家で掘る防空壕はその家族が入れるだけの大きさでじゅうぶんですが、この空洞の高さは3.2m、大人がかたぐるましても天井に手が届かない大きさです。

 これは芹沢の中丸地下工廠のような地下工廠の一部にまちがいありません。壕の高さや東京パミス層の所を掘り抜いている点も一致しています。(このビルの下では東京パミスは地下15mの所にあります。)

これと平行して作られたと思われる地下道がすぐそばにあります。これは地元の方によれば途中で空気を通すための縦穴があり、これが近所の家の庭先にあって子供の頃はよく入って遊んだと言うことですが今はふさいであるようです。

え?それはいったいどこなのかって?
市内某所ということにしておいてください。いろいろ都合がありまして・・
でも本当のことですよ。


■地下水路の可能性も

 明治の終わり頃、地元の超大物、大矢弥市さんのもとで芹沢西牢場の水を中栗原(栗原神社のあたり)へひく地下水路をつくりました。これは西牢場に入り口が二つあり、地下でつながっていたということですが、今は地下水路の出口も入り口もどこにあったのかわからなくなっています。これは高さが3.2mもないとは思いますがどこかにあるはずです。その大矢弥市さんの子孫の方に直接うかがいましたが、もはや位置はわからないとのことでした。


■他にもたくさんある

 地下工廠は芹沢だけではありません。目久尻川の両岸、崖の部分には数え切れないほどの横穴があります。その多くが個人用の防空壕ではなく大規模な地下工廠の一部です。そのほとんどは入り口を完全にふさぎ、過去に封印をしてしまいましたが、一部はふさぎ方が甘くて露出しているものがあります。中にはふさがずに個人の倉庫になっているものもあります。

 まめこぞうは芹沢公園内にある別の地下道に入りました。しかしここは入り口を入ってすぐの天井が崩れていて、人が通れるだけの隙間はあるものの、ちょっと危険を感じました。
さらにこの地下道は出口がないものと思われ、すなわち空気の出入りがほとんどない状態ですから中の酸素量にも不安があります。酸素不足を検知するもの(たとえば火)を持ち込むかどうか考えましたがやはり調査をうち切りました。聞くところによるとこの道は地表の高座工廠への裏玄関だったとか。小田急の陸軍士官学校前駅(現相武台前駅)からバスでやってきてこの通路を通って工廠に入るのが普通のルートだったそうです。


 こんな地下道が栗原中央、南栗原、さがみ野、東原あたりにはたくさんあるのです。うわさでは最長のものは厚木飛行場まで続いているとか・・・目的から言ってあり得ないことではありません。また、中でトラックがすれ違うことができたという地下道もあったそうです。これは実際にそこで働いていた方のお話ですので事実でしょう。

■何のための地下道か?


 多くはさきに述べたような通路だったようで、実際に地下で機械を作ることはあまりなかったとも言います。
また、実際に作業していた人の話では重要書類の他に醤油や衣服などが保管されていたとも言います。つまりは倉庫としての一面もあったわけです。ちなみに終戦時にその物資は行方不明になって消えてしまったそうです。想像はつきますが・・・

地下に保管と言えばドイツでもナチスが入手した美術品や重要な物品を地下の岩塩鉱山に隠したことは有名ですから、枢軸国は同じことを考えたのですね。
でも現代の戦争では地下だろうが網目のような通路だろうがおかまいなしに焼き尽くす特殊爆弾が何種類も用意されています。イラクの方々も不幸でした・・

■ちょっと心配なこと


 しかし何にせよ、このビルの下には出口のない大きな空洞があることだけは事実です。ところで地下に空洞があるとすると地表は安全なのか・・陥没するようなことはないのか?とご心配でしょう?東京だか埼玉だかでは最近戦時中の地下道が崩れ、地表の家が傾いたという事件がありました。
座間も絶対安全とはいえません。でも中丸地下工廠を見ると60年たった今も全くと言っていいほど中は崩れていません。他の地下道で崩れているのは出入り口付近だけです。これは出入り口が季節による温度差や風雨によって激しく風化しているためで、奥の方にはほとんど影響ないようです。関東ローム層という土は土木の面では結構しっかりしたものなのです。
この地下道による陥没を心配なさるなら・・・
実はもっと危ない家がいくらでもあります。関東ローム層は何万年もかけて積もってきましたから粒と粒がお互いにしっかりと支え合っているのですが、いったん掘り返してからたたいて固めてもその支えは失われ、大変崩れやすくなるのです。斜面に無理をして建てたおうちがたくさんありますよね、その土台はどんな土の上にあるのでしょう?出っ張りを切り崩してへっこみを埋めたような場所はコンクリートの壁があっても大きな地震で崩落しやすいのです。お気をつけ下さい。
たぶん次に大きな地震が来ても・・・地下工廠は崩れ落ちないだろうとまめこぞうは信じています。

第16話 高座海軍工廠 後編 地下工廠跡

2003年04月07日 00:00

第16話 高座海軍工廠 後編 地下工廠跡

高座海軍工廠 後編 地下工廠跡(ちかこうしょうあと)


2回にわたってお話ししてきた高座海軍工廠ですが、終戦後は徹底的に破壊され、現在はそのほぼすべてが住宅地とハイテクパークと呼ばれる工業団地に変貌しました。しかしほとんど当時のままのものが残っていました。それは地下でひっそりと保存されてきたのです。

■地下工廠

広大な工廠は標的になりやすく、昭和19年12月以降、何度か空襲を受けています。それでも戦闘機の製造は止められません。そこで空襲をさけつつ地上での作業を補うため、地下にも工廠が作られました。

地下工廠というのは地下に作られた工場のことで、いわゆる防空壕とは規模が違います。防空壕というのはたとえば個人の家の庭先などに掘られた小規模な穴であることが多く、その広さはそこを使用する人が入れれば十分でした。しかし地下工廠はそこでたくさんの人が作業をし、飛行機の部品を作るのですからかなり大きなものになります。
またまめこぞうの旅、高座海軍工廠前編に載せた当時の地図を見てください。目久尻川を挟んで両側に、矢のようにまっすぐ引かれた線が地下工廠です。かなりたくさんあることに驚かされます。

            地下壕の中
     

栗原中央、南栗原などは平らな台地とそれを目久尻川が20mほど掘り下げた低地からなっています。台地と低地の境目は自然の崖になっていますが、地下工廠はこの崖の一番下から水平に掘り進んで作られています。そのほとんどは広い部屋を持たず(広い部屋は天井を支えきれないからでしょう)高さ3mほどのかまぼこ状トンネルでできています。小中学校の廊下ぐらいの大きさと言った方がわかりやすいでしょうか。

■芹沢(せりさわ)の中丸地下工廠(なかまるちかこうしょう)

地下工廠の中でも最もよく保存されているのは栗原中学校のすぐそばにある芹沢公園です。
ここには地下工廠以外にも興味深いものがたくさんあります。たとえば公園中心の芝生広場は中丸と呼ばれていました。中丸をはさんで東西にあるせまい谷はそれぞれ東老場(ひがしろうば:東牢場とも書く)西老場(にしろうば:西牢場とも書く)といいます。これらの地名についてはまたいずれ・・・

中丸の広場の真下に作られたのが中丸地下工廠です。
まめこぞうは平成6年頃、仲間と共にこの中丸地下工廠の内部を詳細に調査しました。そのとき測量した平面図を見てください。自分で書いていて言うのもなんですが、この図はきわめて正確なものです。

東西約100mの中丸広場を横切って東老場と西老場の間に6本の地下道があります。これがすべて25m間隔に平行に伸び、それぞれの間にまるであみだくじのような横道が多数張りめぐらされていて、総延長は1500mほどになります。
あみだくじのような形をしているのは、攻撃を受けたとき入り口の近くで爆弾が爆発しても、その爆風がうまくぬけて被害が少なくてすむようにした工夫です。
東西方向の通路のうち、北側の3本は西老場につきぬけていません。また南北方向の枝道は東西方向の通路とは直角に交わらずにその多くがほぼ南北に掘られています。しかし中央やや南側ではその方向がかなり違っていたり、カーブを描いています。このような形に作られた理由は謎です。


■中で何が行われていたのか

中の様子や作業の内容については軍機密だったので、詳しい記録はありませんが、網の目のように張り巡らされた地下壕の一部にはコンクリートの土台が多数あり、ここに何か機械が据え付けられていたことがわかります。当時中丸の地上で農作業をしていたら地下からガーンガーンという音が聞こえてきたという証言もあります。
実際にこの中で働いたことがあって今でも市内にお住まいの方にまめこぞうが直接インタビューしたところによると、地下工廠では仕事がしにくいので作業はできるだけ地上の工廠で行ったそうです。
また、この地下工廠には大切な書類が保管されていたそうです。それが何なのかはわかりません。
先が行き止まりになっている通路や小さな部屋状の空間が北側にいくつかありますが、ここが書類などの保管場所だったのでしょうか?

天井にいくつか残っている「がいし」
電線を通したあとですが
これが戦時中のものなのか、
マッシュルーム栽培のものかは不明

■どうやって掘ったか

壕の壁はすべてでこぼこで、つるはしのようなもので削ったあとがあります。ということはすべて人の力で掘ったのでしょう。
また、壕の壁には白っぽい地層がはっきりと見えます。これは東京パミスと呼ばれる箱根火山の火山灰層です。この地層を目印にして地下壕を掘ったのだろうと思われます。たまたまこのあたりの東京パミスは相模野台地上にほぼ水平にたい積しているので、この層の所を掘っていけば水平に近い壕ができるわけです。

■戦後の再利用

しかし作業が始まって1年で終戦を迎え、工廠は取り壊され、地下の設備も取り除かれました。工作機械は東南アジアに送られて活躍したようです。
一時期、暗くて湿度が高いことを利用してマッシュルームの栽培が行われたこともありました。これがあたって増産を試みた時、カビが繁殖してマッシュルームが育たなくなり、あきらめたのちはまったく使われずに現在に至っています。
壕の壁に材木が刺さったまま腐っているのはマッシュルームを育てた台を支えたものです。

その後ほとんどの地下壕は出入口を埋めてしまいました。平面図の南側にもう一本平行な通路がありますが、これは埋めずに中が見えるようになっています。
入り口の横に解説のパネルがありますので読んでみてください。
なお、この埋められなかった1本は枝分かれしておらず、工廠というより東老場と西老場をつなぐ通路だったようです。当時、この低地は沼のようになっていて歩ける状態ではなかったからです。

■壕に入ってみた

私、地質調査のためにこの地下壕に入ったことが何度もありますが、湿気とカビと虫で気分悪くなりました。こんなに暗くてじめじめした所で作業していた人がいたのですね‥
ちなみにある時はカマドウマの大群が壁を埋め尽くし、手を出したらマンガのようにとびかかってきて・・というより落ちてきて、目や口に入ったほどでした。
ヤスデだか何だか足のいっぱいあるやつが、それも10cm以上あるやつがぞろぞろはい回っている時もありました。私、虫だいっきらいです。


壁の掘りあと
つるはしのようなもので削ったようです
2本平行になっている削りあともあるので
先が2つに割れたくわのようなものも使ったのでしょう

写真の下半分が東京パミス層
中央の針金は電線をとめたもの
左の端は・・・きゃー!



この中丸地下壕は50年以上たった今でもほとんど崩れることなく、当時の形を残しています。
これはけっこうすごいことです。昭和の遺産としてながく保存したいと思うのですが文化財に指定できないものでしょうか?

第15話 高座海軍工廠 中編

2003年03月26日 00:00

第15話 高座海軍工廠 中編

高座海軍工廠 中編 

「ゼロが飛んでる!」
「何だって?」
「三菱のゼロだ!」
1980年のアメリカ映画、ファイナルカウントダウンの中にそんなせりふがあったと記憶しています。当時最新鋭だった空母、ニミッツがタイムスリップして真珠湾奇襲攻撃にでくわすというまったく意味のないSF映画でしたが、このせりふでまめこぞうは零戦が三菱重工によって作られた物であることを初めて知ったのでした。(戦勝国の描く敗戦国の姿は見るに耐えません・・)
今回の主役は零戦ではなく、前回に引き続き「雷電」とそれを作った人々です。

■雷電の生産

 雷電については前回にも書きました。本格的に生産されだしたのは昭和19年10月ごろらしいのですが、さまざまな資料があり、まめこぞうにはよくわかりません。運動性度外視速度重視の迎撃戦闘機であり、「局地戦闘機」と呼ばれました。

 それまで海軍では航空機の採用年度をもってその航空機の名称にしていました。たとえば昭和3年採用の三式艦上戦闘機などがあります。昭和4年からは昭和ではなく皇紀(こうき:若い人は知らないですよねぇ)の下二桁をつかうように変わりました。そして皇紀2600年の昭和15年からは下一桁をつかうこととなり、その年に採用されたのが零式艦上戦闘機、零戦です。しかし昭和18年からはこれをやめ、数字ではない名前を付けるようになりました。製造年から性能が漏れるのを防ぐためだそうです。(そんなものでしょうか?)
戦闘機は気象に関係ある名前がつけられることになりました。そして誕生したのが雷電だったのです。もともと一四試局地戦闘機(昭和14年に開発が始まった)と呼ばれていたのですが数字ルールが続いていたら「三式局地戦闘機」(昭和18年、皇紀2603年に正式採用された。)とか呼ばれたのでしょうかね。
 雷電の生産機数は資料によりさまざまですが、野原茂著「海軍局地戦闘機」(光人社)には「128機」と書かれていました。これが一番信頼できそうな数字です。
工廠がスタートしたのが昭和19年の5月で実質的には1年ほどしか稼働していなかったのですからしょうがありません。しかも時々空襲があり、生産はストップしたといいます。
 話はそれますが、雷電の設計も零戦と同じ三菱重工でした。戦後のYSー11もそうです。今に至っては世界に誇れる国産ロケット、H2A(エイチ ツー エー)も三菱が大きく関わっています。

■雷電を作った人々

 ここで働いていた人は1万人近くもいました。しかし日本の命運をかけたこの大工場で働く人の多くが今なら中高校生ぐらいの少年達で、特に台湾から来た少年達が8割をしめていました。当時、台湾は日本の一部だったからです。

 この台湾の少年達は台湾現地の国民学校高等科(現在なら中学校)の生徒の中でも優秀な者が選ばれ、教師の推薦で内地に希望を持ってやって来たといいます。なぜなら内地では働きながら勉強もでき、さらに賃金がもらえて資格も取れる、数年勤務したら上位学校の卒業資格ももらえるとふれこまれていたからです。
しかし実際の勤務はかなりきびしいものでした。大和市の上草柳(かみそうやぎ)に宿舎が作られ、そこから高座海軍工廠に通っていましたが、働くだけで勉強はできませんでした。資格の取得など口にも出せなかったそうです。多くの少年が「だまされた」と思ったそうですが、これはたしかに軍の策略かもしれません。しかし昭和19年5月と言えば日本はすでに追いつめられており、その直後、7月にはサイパン守備隊玉砕、米軍グァム上陸、10月「I shall return!」と言ったマッカーサーの言葉どおりフィリピンに米軍上陸、11月東京空襲始まる、翌3月には東京大空襲・・・とても悠長に「勉強して資格を取って」などとは言っていられない時代だったのも事実です。

 そのあたりの詳しい話は私のような者が語るよりご本人の言葉を読んでみてください。インターネットで「高座海軍工廠」をキーに検索すれば台湾少年工の話が本当にたくさん見つかるはずです。
 大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん)、八紘一宇(はっこういちう)、五族協和(ごぞくきょうわ)といった理想はかなり偏った結果になってしまったのですね。え?何のことだかわからない?これは辞書で調べてください。でもそんな日本に感謝してくれる台湾のもと工員の方もいらっしゃいます。ちょっと工廠の話とは違うのですが、戦後台湾を訪れた我が師の大学教授は見ず知らずの家で「日本には大変お世話になった」と歓待を受け、とまどったと言ってました。悲しい歴史の中でわずかに救われる思いがします。

■なんと三島由紀夫さんもいた

 働いていたのは台湾の人達だけではありません。もちろん内地の人々もいました。
近くでは厚木中学(現厚木高校)、厚木高女(あつぎこうじょ:厚木東高校)、藤沢高女(湘南高校)などの生徒が勤労学徒として動員されました。これらの人々も勉強どころではなかったのです。
学習院高等科を首席で卒業し東京帝国大学の法学部に入学した優秀な学生が、昭和20年の5月に工廠の寮に入っています。三島由紀夫さんです。
具体的に何をしていたのかはよく知りません。ところが彼は寮にいながら数多くの短編小説等を書いているのです。まさに終戦直前という時期に!
もっと不思議なのは20年の7月ごろは能楽や近松の世界に親しんだと言われます。8月15日には熱を出して世田谷の親戚のうちに行ったところで終戦を知ったそうです。生活に余裕がなかったと想像される少年工達とはだいぶ違ったイメージを持ちます。
ちなみに三島さんは応召(おうしょう:招集を受ける)の入隊検査で不適と判断され、失意の末ここ高座海軍工廠にやってきました。軍医の誤診だったと言われています。そんな体験があのすさまじい死につながるのでしょうか。

 もう一人有名な方がいました。こちらは日本大学農学部に入学したばかりの学生で、工廠付近で畑を開墾し、サツマイモを作るのが主な仕事でした。それが終戦後は同大学の水泳部に入部し、さらに昭和23年には日本がオリンピック参加を許されなかったにもかかわらず、驚異的世界記録を
樹立し24年にはロサンゼルスの全米水泳選手権でまたまた世界記録を出し、「フジヤマのトビウオ」と称されたあの古橋広之進さんです。最近ではJOC日本オリンピック委員会の会長でもありましたね。たぶん古橋さんが耕していたのは今の東原あたりではないでしょうか。

■雷電は飛んだのか

 このころの日本はもはや国外から物資を運んでくることができなくなり、戦闘機や砲弾は国内にあるありとあらゆる金属を集め、再利用せざるをえなくなっていました。このような目的で金属などを集めることを「軍事供出」(ぐんじきょうしゅつ:ただ供出ともいう)といいました。供出された物資は、家にある鍋やお釜をはじめ、太いくぎやお寺の釣り鐘などもありました。この工廠で使っていた材料が供出されたものかはわかりませんが、機体を作るジュラルミンやそのまた原料のアルミニウムなど、当時は家庭にある物ではありませんでした。南方から運んでくるにもすでに海路は絶たれていましたから入手できない状態でした。

 材料がそろったとしてもそれを組み立てていたのは少年達です。高座工廠で働いていた少年達はまじめで、専門家よりも作業能率はよかったと伝えられています。しかし少年です。「今とは鍛え方が違う」「みんなお国のために必死で頑張った」といっても高い技術を持っていたとは考えられません。
 ちなみに、完成した雷電の一号機は試験飛行中に空中分解し、墜落しました。この時の操縦士は運良く脱出できましたが、これでは敵機を迎え撃つのにちょっと不安がありますね。

■空襲

 ここは当然のように米軍からの空襲を受けました。その詳細は調べ切れていませんが、作業が中断してしまうので地下に工場を造ったほどです。これは次回にまた詳しくお話ししましょう。
ここで働いていた少年達は国内の別の工廠にも派遣されました。どこの工廠も空襲を受け、かなりの人が亡くなりました。まめこぞうはその空襲を目の前で見た元工員さんから直接話をうかがいました。
この方は空襲警報が鳴ったので友達と一緒に走って逃げていたらすぐ後ろに爆弾が落ち、爆風で吹き飛ばされてしまいました。一瞬何が起きたのかわかりませんでしたが、立ち上がって後ろを振り向くと友達がいません。そしてあらためてまわりを見ると木の枝にピンクの花がたくさんさいていました。なんてきれいなんだ…と見とれてしまいましたが、その木はピンクの花を付けるものではありません。ふと我に返ってよく見ると、それは爆撃によって飛び散った友達だったのです。粉々になった身体中の肉や内臓が、木一面にはりついたり枝に突き刺さっていたのです。(これは高座工廠の話ではありません)
戦争は美しくありません。お亡くなりになった方々のご冥福を祈ります。

■終戦

 工廠がスタートしてわずか1年3ヶ月後、戦争は終わりました。厚木基地における負けを認めない一部の軍人による行動は有名ですが、この人達は基地内の航空機を数機、米軍進駐前に移動し、森の中に隠しました。その場所が現在のひばりが丘高校のあたりだったそうです。結局それらは使われることなく陸海軍とも武装解除され、高座海軍工廠は徹底的に破壊されました。そのときの瓦礫(がれき)が東原に埋められていると聞きました。
 試験滑走路にはやがて用水路が造られ記念の桜並木も誕生しました。(このまめこぞうの旅、第2話をご覧下さい)また桜の季節がやってきました。この花を理想として散っていった人々がいた時代を思い、今年もお花見に行って来ようと思います。

戦後、米軍によって撮影された工廠の航空写真。
建物はまだありますが、このあと破壊されました。
電車の引き込み線も見えます。

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