0462.net

あなたの知らない座間がある。 0462.netは座間市内197店舗のお店が
参加するポータルサイトです。

ざまーけっとの画像検索を活用しよう!

第14話 高座海軍工廠 前編

2003年02月28日 00:00

第14話 高座海軍工廠 前編

高座海軍工廠(こうざかいぐんこうしょう)前編


座間市の東部は台地の上にあり、相模野と呼ばれるほとんど平らな土地が広がっています。
ここには太平洋戦争末期、高座海軍工廠という大工場がありました。

■海軍工廠とは
 旧海軍の艦船、航空機などの兵器を作ったり、修理、実験などを行う工場のことです。
横須賀を筆頭に呉、佐世保、舞鶴など全国にたくさんありました。神奈川県内には他に最近イペリットが入ったビール瓶が発見されて大騒ぎになった、寒川町の「相模海軍工廠」があります。

■高座海軍工廠は
 海軍の工廠でありながら海から離れた座間にわざわざ作られたのは、艦船ではなく航空機建造のためです。
戦時中、高座郡は軍都と呼ばれ、その広大な土地の多くを軍が使用していました。相模原から座間北部にかけては(当時は一つの町でしたが)陸軍が士官学校(現キャンプ座間)、野戦病院(現国立相模原病院)、練兵場(れんぺいじょう:相模台、麻溝台、新磯野、相武台あたりのすべて)などを置き、大和や綾瀬には海軍が海軍航空隊(現厚木基地)を置きました。座間に海軍工廠が敷設されたのはそれらに近かったことに加え、平らな地形と相模鉄道(現相鉄線)があったことが大きな理由でしょう。
 この工廠は計画段階でのコードネームを「空C廠」(くうしーしょう)と言いました。Cって敵性語じゃないんですかね?海軍はそういう小さいことにこだわらなかったのかな?
厚木飛行場は開戦の年、昭和16年に建設されたのですが、高座海軍工廠は戦争も終わりに近づいた昭和19年5月にスタートしています。

■造っていたのは
 ここでは主に「雷電」(らいでん)という戦闘機を造っていました。海軍の戦闘機と言えば私のような戦後生まれでも知っているのは「零式艦上戦闘機」(れいしきかんじょうせんとうき)、いわゆる「零戦」(れいせん)です。これを連合国はゼロと呼んでいましたが・・
しかし連合国の攻撃が日増しに厳しくなってきた時、零戦より速度や上昇能力が上回る戦闘機の量産が急務になりました。それが雷電です。

 雷電は爆撃機用の大型エンジン「火星」を積むことで能力を上げることに成功しましたが、エンジンが大きすぎて機体の最前部に取り付けると空気抵抗が大きすぎ、やむを得ず少し後ろに取り付けたためプロペラとエンジンの距離が開いてしまいました。このためプロペラをまわす軸が長すぎて機体が振動してしまうという欠点がありました。
また、着陸速度が速くて操縦には高度な技術を必要としました。さらに、大きなエンジンを覆った機体そのものが太く、操縦席からの視界がかなり悪いという致命的な欠点から、進んで乗りたがる操縦士は少なかったようです。
しかし本土を爆撃に来たB29が零戦では追いつけない高々度を飛行しているところに雷電が自慢の上昇能力を生かしてくらいつき、撃墜したことがきっかけで本土防衛の要として雷電増産が急がれるようになったのでした。

■工廠と道路
 工廠は現在の座間市さがみ野、東原、ひばりが丘、そして海老名市東柏ヶ谷にわたっていました。工廠概略図と現在の地図を比べてください。工
廠内の大きな道路が現在も主要な道路として残っていることがわかります。
また、工廠だった区域の道路はほぼ東西南北にまっすぐ造られているので、現在でもその範囲がわかりやすくなっています。

 南北方向の大きな道は桜並木の道とひばりが丘交番から朝日新聞社を経て中村屋の工場の方に抜ける道です。この2つは幅が当時は40mもあり、現在はその西半分をつぶして宅地や工場、店舗、公園などにしてあります。
たとえば桜並木の西側に隣接した部分では、東原小学校体育館、座間市消防署東分署、東原保育園、東原コミセンなどの土地はもともとこの道だったところなのですが、実はここ、道路と言うより航空機の滑走路だったのです。(このまめこぞうの旅第2話も見てください)

東西方向の大きな道路は北から・・東中学校とひばりが丘小学校の間の道、国道246号線、相模健康センターから県営住宅を結ぶ大きな花壇のある道の3つです。
健康センターの前の道路は車道と同じぐらいの幅で花壇と歩道がありますが、これら全部を合わせた部分が当時は道路だったわけです。

東西方向の道:この花壇と両側の車道、
歩道などが道だったところ

滑走路
 幅40mというのは現在の厚木飛行場とほとんど変わりません。長さは厚木の約半分ですが、当時離着陸した戦闘機などならその長さで十分でした。

滑走路あと:右のさくら団地は第2組み立て工場跡

 先日、東原小学校の先生が校庭の東端で花壇を掘っていたら、固く突き固められた粘土の層が出てきて困ったという話をしていました。それこそまさに滑走路そのものなのでしょう。今度掘る時は私も呼んでもらうことになっています。

滑走路南端:桜並木とその左側の公園も
元滑走路でした。右の建物は第1組み立て

組み立て工場
 第1から第5までありましたが、第1工場は現在の県営住宅、第2工場がさがみ野さくら団地、第3工場がさくら公園、第4、第5工場がコナミや朝日新聞社になっているところです。大きな木造の建物が建っていたようです。

その他の施設

・さがみ野駅前の相鉄ローゼンなどが総務部でこれが工廠の南端でした。
・反対の北端は東中学校の敷地で、ここが工員養成所でした。グラウンドを掘ったら何か出てくるのでしょうね。
・ひばりが丘4丁目の東端とさがみ野1丁目の真ん中あたりに高射砲(こうしゃほう:空襲時に空に向けて撃つ大砲)が複数あったことに驚きます。
・南中学校のそばに地下変電所がありました。

 工廠概略図の左の方に、矢のような直線が多数ありますが、これは地下壕を表しています。これについてはまた後編で詳しくお知らせします。

おねがい
 もともとここはこんな場所だった!などと暴かれることを好まない方も多いと思います。しかしまめこぞうはこの町に工廠があったということが昭和史の遺産として語り継ぐべき大きな事実であると考えます。ご理解下さい。
 それから今でも当時の何かが残っていないでしょうか?もしご存知ならメールでお知らせ下さい。(たとえば海軍施設であることを示す標識石、高射砲の台だったコンクリート、工廠の機械や道具の一部、滑走路の面、引き込み線の一部などなど)戦後60年たとうとしている今、歴史を語る証拠がもし残っているなら、それが完全になくなってしまわないうちに何とかしたいと思うのです。その場での保存が難しいなら公共施設に場所を移してもいいと思います。

海軍標識石:海という字が彫られている。
写真は海老名市大谷のもの

 今回の内容はインターネットでもたくさん紹介されていますので是非そちらもごらんになって下さい。「高座海軍工廠」「空C廠」「雷電」などをキーワードに検索するとものすごい量のサイトがあることがわかります。つまりこの工廠の歴史は座間だけの物ではないのですね。全国区、いや、世界的な歴史なのかもしれません。

次回は中編として工廠で働いていた人々について、また後編は地下工廠についての予定です。

第13話 道祖神

2003年01月06日 00:00

第13話 道祖神

道祖神

村の中心地や村と村の境、別れ道の角、坂道の上下などに建てて、村に悪霊(あくりょう)や伝染病が入らないように守る神としてまつられてきました。
道祖神はいろいろな信仰が合体していて何の神とは一口で言えず、縁結びや子孫繁栄、交通安全までなんでもOKの神様になっています。そんなわけでけっこう多くの道祖神が町のあちこちに建てられているのですが今まで気づかなかったでしょう?まめこぞうがいろいろな石仏を調べていると、たまたま通りかかった人がたいがい「道祖神を調べているんですか?」と話しかけてきます。一般の人には石仏=道祖神と思えるくらい多く分布しているということでしょうね。

道祖神の石仏

道祖神は何でもOKな神様だけあって、姿もさまざまです。
ただ「道祖神」と文字だけを彫ったもの、二人の神様が並んでいるもの(双体道祖神:そうたいどうそじん)などの他に、五輪塔(ごりんとう)や小さな宝篋印塔(ほうきょういんとう)のばらばらになったもの(専門家はこれをごろ石と呼びます)も道祖神と呼ばれています。


また、他の神様や仏様を彫った石塔は明治時代ぐらいまでは造られていましたが現代まで造られ続けているのは道祖神ぐらいのものでしょう。

ちなみに五輪塔や宝篋印塔のほとんどは年号などが読めないので定かではありませんが、江戸時代より前に、死者を供養するために造られた物のようです。宝篋印塔は飾りの彫りが特徴的です。五輪塔は梵字(ぼんじ)で「キャ、カ、ラ、バ、ア」と彫ってあるのが一般的です。ごろ石にもよーく見ると梵字がかすかに残っている場合が多いです。

谷戸山ごろ石:谷戸山公園の入り口近くにある道祖神群です。右上の黒くて丸い石は五輪塔の一部で、昨年のどんど焼きで火の中にくべられました。その下は宝篋印塔の台座です。左から2番目の物が首から折れていますが双体道祖神です。

諏訪ごろ石:西中学校と諏訪神社の間にある文字道祖神とごろ石です。

上栗原:上栗原にある文字道祖神とごろ石です。

どんど焼き

道祖神は悪霊などが村に入ることをさえぎることからサエノカミ(サイノカミ)とも呼ばれ、毎年1月14日にはサイトバライという行事が行われます。(座間の方言ではセートバレエと言います)道祖神が建っている場所を「サイト」または「サイトバ」といい、ここを祓う(はらう:神社のおはらいと同じ意味)からサイトバライです。
サイトバライといってもわからないでしょうが、「どんど焼き」といえばたいがいの人が知っていますね。道祖神の前に集められた正月の飾りものやお札(ふだ)を燃やし、木の枝につけた団子(だんご)を焼いて食べたりするもの
です。そうとは知らずにこれに参加していた人も多いでしょう?

サイトバライのときは道祖神本体も火の中にくべられます。ただ、大きな石塔は動かせないので代わりにごろ石をつかう場合がほとんどのようです。黒く焦げた石仏や丸い石があれば、それはサイトバライで焼かれた道祖神です。

道祖神と一つ目小僧

毎年1月14日にどんど焼きと称して道祖神を焼くのには理由があるのです。12月8日に一つ目小僧がやってきてこっそり家の中をチェックします。だらしない点があるとメモをし、厄病神(やくびょうがみ)に報告してあとで来てもらうためです。あることないこと報告されるとそのうちには疫病神が住み着くのですから、たまったものではありません。

それは困るといううちでは、まず防衛手段として家の外に竹であんだ大きな篭(かご)をぶらさげます。一つ目小僧はチェックしようと家の前まで来たところでその篭に目がたくさんあるのを見て驚き、逃げ出すのだそうです。ちなみに篭の目を「かごめ」といいます。

それでも逃げない職務に忠実な根性のある一つ目小僧は、メモをとったあとそれをなぜかいったん道祖神にあずけ、2月の初めに取りに来るのだそうです。この2ヶ月間何をしているのでしょう?
それが最後のチャンスです。防衛しきれなかったからにはしかたない。人々は攻撃に出ます。道祖神がメモを持っているのなら、それを焼いてしまうことにより、メモはなくなってしまったということにしてしまおうというのがサイ
トバライです。

今どき12月8日に家の前にかごをぶら下げている風景はめったに見られません。しかしサイトバライだけは多くの場所で行われています。自治会で行う所、子供会で行う所、さまざまですが1月14日はそこかしこで煙が上がっていますね。

おまけ「かごめ」

呪術者(じゅじゅつしゃ)が悪霊の存在を感じた時「臨、兵、闘、者、皆、陣、裂、在、前」(りんぴょうとうしゃかいじんれつざいぜん)と呪文を唱えながら手刀を縦横に切ります。テレビでも半年に1回は主婦に憑いた(ついた)悪霊を追いはらうとかいうスペシャル番組がありますでしょう?あれに必ず出てきますね。これを「九字(くじ)を切る」といいますが、そうすることによって空中にたくさんの目を作り、悪霊をおどかして退散させるというのはこの一つ目小僧のかごめに似ています。目にはそんな霊力があると考えられてきました。
それにしても悪霊ってけっこう気が小さいんですかね。道ばたにいる怖いお兄さん方のほうがよっぽど強いですね。ガンをつける(にらむ)とかかってきますから。

それよりかごめといえばあの歌、「かーごめかーごめ、かーごのなーかのとーりーは・・」あまりに謎深い歌詞ゆえに暗号ではないかと言われていますが何なのでしょう?この話と関係あるのかな?

高橋留美子さんが描く「犬夜叉」(いぬやしゃ)のヒロイン「かごめ」は女子高生でありながら霊を祓う力を持っています。高橋さん、さすがです。

さいごに・・ごろ石のことを座間のみなさんはなんと呼んでいられますか?メールでお知らせ下さい。

第12話 桜田伝説その2

2002年11月19日 00:00

第12話 桜田伝説その2

桜田伝説 その2

今回は小桜姫が護王姫の娘だったかもしれないということを語るちょっと難しい話・・
中学生さんが市内巡りの資料にするには向かないかもしれません。
ここで予備知識として時代背景と用語を超簡単に解説!

鎌倉公方(かまくらくぼう):室町時代、関東などを支配した役職。足利尊氏の子、基氏から代々世襲。
関東管領(かんとうかんれい):鎌倉公方を補佐する役職。上杉氏の世襲。

永享の乱(えいきょうのらん):1438年、室町六代将軍足利義教(よしのり)に対し、鎌倉公方足利持氏(もちうじ)が反抗。これをいさめた関東管領上杉憲実(のりざね)と持氏が不和になった。関東一円を巻き込む戦乱に幕府の軍も加わって持氏は切腹させられた。

結城合戦(ゆうきかっせん):1440年、永享の乱で持氏に加担した者たちが持氏の遺児を立てて結城城に集結、幕府方と1年ほど戦い抜いたが翌年全滅した。

嘉吉の乱(かきつのらん):1441年、結城合戦の2ヶ月後、将軍義教が赤松氏に殺された。これにより将軍家の権威は失墜した。

享徳の乱(きょうとくのらん):1454年、鎌倉公方足利成氏(しげうじ、足利持氏の子)が、関東管領上杉憲忠(のりただ、上杉憲実の子)を殺害、幕府と対立して鎌倉を脱出、古河にとどまり古河公方と呼ばれた。幕府は新たな鎌倉公方として足利政知(まさとも、義政の弟)を任命するが抵抗勢力のため鎌倉に入れず、伊豆堀越(ほりこし、ほりごえともいう)にとどまって堀越公方と呼ばれる。また関東管領家も山ノ内(やまのうち)上杉と扇ガ谷(おうぎがやつ)上杉が対立。これによって関東は戦国状態になる。ちなみに歴史の教科書には戦国時代は応仁の乱(1467年)から始まると書かれているが、それは関西方面の話であって関東は10年以上早かった。

〔復習、護王姫について〕

バックナンバーを見ていただければいいのですが、以前護王姫には3つの異なる伝説があると書きました。しかし本当は他にも似た話がいくつもあります。その中でまめこぞうは一色伊予守六郎の妻説を支持しています。今回は一色説だけを取り上げて考えます。
永享の乱後、一色伊代守は鎌倉を脱出、これが不穏(ふおん)であると幕府軍に海老名の今泉屋敷を包囲されますがすでにそこも脱出、結城に参陣していました。屋敷に残された者も敵前で脱出をはかりますが逃げ切れず討ち死にし、妊娠中の妻「護王」は産川で出産、その後座間の地で亡くなりました。その地に建てたのが護王姫神社と言われています。亡くなったのは永享十二年(1440年)です。

〔復習、渋谷高間について〕

前回のお話、主人公とも言える渋谷高間ですが、龍源院に伝わる話ではこの人の屋敷は「丸山下」(まるやました)にありました。諸国を回って修行しているうちに家族がみな死んでしまい、屋敷を寺にしたのが寛正(かんしょう)二年(1461年)です。

ここから今回の本題・・・

〔護王姫神社は高間の屋敷だった〕

地図を見てください。護王姫神社の横を南北に通っているのが鎌倉街道です。これは鎌倉時代から室町時代にかけての座間のメインストリートでした。護王もここを通って逃げてきたわけです。まめこぞうは護王姫の伝説の回で、姫は野中で死んでいったと書きましたが、まったく違うかもしれません。高間の屋敷があった丸山下というのはなんと護王姫神社も含めてこの街道の東側一帯なのです。ということは護王が死んだと言われる地は、高間の屋敷の一部か屋敷のすぐ目の前なのです。これは衝撃的でした。

〔年代を逆算〕

高間は修行の旅から帰って初めて一家の惨劇を知り、その後に屋敷を寺にしたのですから、惨劇は1461年より少し前です。仮に1450年代後半としておきましょう。その惨劇が起きたとき、はたして小桜姫が何歳だったのかまったく伝わっていませんが、おそらくティーンエイジだったと考えてみましょう。するとどうです?小桜姫が生まれたのはちょうど1440年頃ということになりませんか?それは護王が赤ちゃんを産んで亡くなった年です。
ほーら、難しい話に飽きていた人もここまで来るとわくわくしますでしょ?

〔ここに屋敷があった証拠〕

では屋敷について考えてみましょう。ここに高間の屋敷があったのではないかと思える証拠がいくつかあります。

その1 土塁(どるい)
護王姫神社の周りは周囲より高くなっています。これは入谷バイパス(大きい道路)を見れば一目瞭然です。明治時代に撮られた写真を見てもここはかなり盛り上がっています。自然のものではありません。屋敷の防衛施設としての土塁と思われます。

その2 地名
このあたりの土地の名は「上の屋敷」と言います。これは必ずしも高間の屋敷を指す名ではなく、鎌倉時代からこのあたりに集落があったことを示すものと言われています。初め台地上にあった集落がやがて低地におりて広がっていったため、上の屋敷というのでしょう。

護王姫神社:道より神社周辺が盛り上がっています。

一般人の集落を屋敷と呼ぶことはめずらしくないかもしれませんが、屋敷と言われるだけのものがあったと思えるのです。



その3 地形
ここは鎌倉街道に沿って交通の要衝であっただけでなく、北西南の三方を川と崖でさえぎられた台地上であり、中世の防衛施設としては立地条件がかなりよいと思われます。

北の崖:近年宅地開発で手を加えられましたがもともとかなりの急傾斜地でした。

南の崖:いまだに昔のまま急斜面を保っています。


その4 矢竹(やだけ)
この北側の崖には矢竹と言われる竹がたくさん生えています。この竹は枝分かれせずまっすぐ2mほどの高さに伸びるため、刈り取って矢にしました。自然に分布するものではなく、中世は屋敷の周辺にこれを植え、平時から矢作りをしていました。これがたくさん生えているということは、ここに中世の屋敷があったことを強く物語ります。
ただ市内にはここだけではなく矢竹の生えている場所が何カ所もあります。まめこぞうはこれらの多くが中世の館などの跡ではないかと考えています。たとえば丸山下とは小川をへだててすぐ南側の心岩寺墓地やひまわり公園の谷などです。

その5 若林大炊之助(おおいのすけ)の屋敷跡
護王姫神社の西側、崖のふちに小さな稲荷があります。若林稲荷と土地の人は呼びますが、このあたりに戦国時代末、若林大炊之助という小田原北条氏の家臣が住んでいました。この大炊之助が龍源院を現在の地に移したと言われます。ならば高間の屋敷は大炊之助の屋敷とは重ならない範囲であってなおかつこの近くにあったはずです。

若林稲荷:昼でも薄暗く、まめこぞうでもちょっと怖いです。

ただしこれらの証拠が渋谷高間の屋敷と断定できるほどのものでないことは認めます。中世の遺物が出土すれば話は変わってきますが・・
まめこぞうは数年前、海老名市内にある大谷氏の館跡で中世の火鉢の破片を見つけました。丸山下にもそんなものはないかと歩いてみたのですが、縄文土器や石器は落ちていても、中世を示すものは見つかりませんでした。

〔護王の身柄は〕

次に護王のことを考えてみましょう。護王がここにたどり着いたとき、屋敷側はどう反応したでし?。関東中を巻き込んだ戦時です。門前に他家の姫が逃げてきたことに気がつかないはずがありません。ならば護王と高間が直接出会った可能性も出てきます。伝説通り、すでに生んだ子は殺されて護王もここで息を引き取ったというならこの話は終わってしまいます。しかしもし護王が胎児とともに高間の屋敷にかくまわれたとしたら・・・高間の「先妻」とはひょっとして護王だったのかもしれません。たとえ結婚していなくてもそこで生まれた子を「先妻の子」と呼んだのかもしれません。では護王は?傷を負っていたかお産のために亡くなったのでしょうか・・いや、まめこぞうは護王が生きていたのではないかとさえ思うのです。

〔高間の出家〕

では次になぜ高間が急に世を捨てて出家し、諸国行脚に出たかを考えます。渋谷一族は広くこのあたりに住んでいて高間はその1人にすぎません。すぐそばの在宗仲寺(そうちゅうじ)が建つ場所にも当時渋谷内膳という人が屋敷を構えていました。いずれまた宗仲寺の項でお話ししますが、この地も相模川に沿った交通の要衝で、川と崖に守られた防衛拠点でした。
しかし応永23年(1416年)の戦乱(または永享の乱の時という説もある)でここは戦火に焼かれ何も残らなかったと伝わっています。高間は目の前で一族の敗戦を見ているわけです。いや、ひょっとすると内膳は高間の父だったかもしれません。そう考えると高間が幼くして両親を亡くしている記述と合致します。
話はかわりますが結城合戦の直前、結城を攻めることに反対した者が数人出家して参戦を拒みました。合戦が終わったあと、勝者であるはずの上杉憲実は自殺しようと腹を切りますが止められて助かっています。結城合戦で持氏の幼い遺児までもが殺されたことに対して自責の念からの行動と言われています。そんな憲実も1449年、関東管領職を息子憲忠に譲り出家、諸国行脚に出ます。この年に持氏の末子、成氏が鎌倉公方になったからです。いくらなんでも上司を殺した自分がその上司の子に管領職として仕えることはできなかったのです。
このあと1454年に享徳の乱が起き、成氏が憲忠を殺害します。もちろん親の仇の子だからと言う理由です。このころの戦いには正義も何もなく、ただうらみやらメンツと言ったようなことだけで君臣も一族も関係なく殺し合うものとなってしまいました。これが戦国です。この状態を嫌った心あるものは出家することが多かったようです。
さて前説が長すぎましたが高間は享徳の乱後、古河公方と堀越公方、山ノ内上杉と扇ガ谷上杉といった大勢力の間でどちらかに味方すれば他方に攻められるという微妙な立場にあったはずです。そこで戦って滅ぶより出家の道を選んだのではないでしょうか。鎌倉公方と関東管領の勝手な争いに一族が巻き込まれて苦しんだ彼の心中は現代でも察することができそうです。それとも高間は憲実といっしょに諸国を回ったのでしょうか・・・憲実が行脚の末に周防の大内氏のもとに身を寄せた頃、高間が座間に戻ってきているらしいのです。

〔小桜姫と後妻の死〕

高間の留守中、残された屋敷の者たちも大変微妙な立場にあったと想像されます。そんな中、もし小桜姫がかつて結城合戦の首謀者でもあった一色伊代守の娘だとしたら・・家としての中立は保てなくなります。そこで家老が絞め殺さざるを得なかったのかもしれません。
急に長女が死んだ理由をどうつけるか・・これをすべて後妻のせいにして関係者を皆亡き者にした、いや後妻が護王その人だったら・・・・?
先妻と後妻が同一人物というのはおかしいですが、小桜は一色伊代守六郎と護王の間の子、よってこれを高間が引き取るにあたって「先妻の子」と称し、そのまま屋敷にとどまった護王は六郎亡きあと高間と結婚し、これを後妻と呼んでこの間に生まれた子が小柳姫だとしたらつじつまが合ってくるのです。そうしたら二人の姫は異母姉妹ではなく同母異父姉妹ということになります。
まめこぞうは主人の帰りを待たずにあわてて消された女性たちの秘密をあれこれ想像するのです。

〔南総里見八犬伝〕

あの有名な八犬伝は江戸時代中頃、滝沢馬琴によって書かれました。もちろん虚構の物語ですが、結城合戦から始まり、関東戦国の中、二人の公方と上杉氏に翻弄されつつも不思議な縁のもとで活躍する八人の主人公たちを描いています。その物語中の時代がまさに今回ここで取り上げている桜田伝説と一致しているのです。この八人の生い立ちや境遇こそ、高間にも共通するものがあります。(まめこぞうは昔NHKの人形劇で見た覚えがありますが、扇ガ谷上杉が敵役でしたっけ。)今この文を書きながらあらためて本物
の南総里見八犬伝を読んでみようかと思うのです・・・

〔終わりに〕

今回の話はちょっと攻撃的です。おそらく厳しいおしかりの言葉が雨あられ・・それは覚悟の上です。確証はないということを読者のみなさんがよく認識しておいてください。インターネットにはこういった不確かな情報を載せることがよくないとされています。ただ、次の研究者に提案するためにあえて書きました。将来こういった視点で研究が進み、これが事実に近いものであったということが証明されたらとてもとてもうれしいです。
こんなローカルな話、本気で研究する人はいないかな?でもメールでご意見をいただければ幸いです。
それではNHK「そのとき歴史が動いた」のエンディング風に・・・・
小桜姫の墓といわれる塚にはかつて長禄(ちょうろく)二年(1458年)と刻まれた板碑(いたび:死者を供養するために作られた平べったい石の塔)があったそうです。高間が屋敷を寺にする3年前にあたります。これが小桜をとむらうために建てられたものだったのか、またそれを建てたのは誰だったのか・・・それを思う我々の前に、小桜、小柳、そしてその母の三人の身に起きた真実を語る者はいません。

第11話 桜田伝説その1

2002年11月05日 00:00

第11話 桜田伝説その1

桜田伝説 その1

座間高校南西の田の中に小さな標識が立っています。ここには3人の女性の悲しい話が伝わっています。今回はその紹介で始まりますが・・・じつはまめこぞうはここで大胆な仮説を立ててしまいました。ちょっとうきうきなんですがまずはかたい話、読んでみてください。

解説塔:塚には小さな解説塔が建てられています。
    バックは座間高校です。


座間古説(ざまこせつ)から

鎮守(ちんじゅ:鈴鹿神社のこと)の北に渋谷高間(しぶやたかま)という者がいた。幼少の時父母に死なれ、成人した後、妻子を持った。この娘を小桜姫(こざくらひめ)という。その母が死んでしまったので後妻をもらい、また娘、小柳姫ができた。

ところが高間は突然に世を捨て、髪をおろして諸国修行の旅に出てしまった。そのとき後妻は自分の思い通りにしようと思い、家老と相談して「小桜は先妻の子、我が子小柳を立てたい」と家老に頼んで小桜を夜のうちに絞め殺させ、「やのふけ」に沈めた。(やのふけとは「谷の深」と書き、座間高校あたりの深い淵のことだった。いわゆる三日月湖だったと思われる。)

妹の小柳はこれを聞き知り、「ああ、なんてひどいお母様なの!お姉さまをどこへ追い出したの?聞けばやのふけに沈めてしまったとのこと。このことを父上が知ったら母はもちろん、私をも憎まれることでしょう。」と嘆き悲しんだ。

そして自分も姉様と一緒に黄泉(こうせんと読ませているがよみのくにのこと)の旅につこうと(つまり死んでしまうということ)みずからやのふけに身を投じて死んでしまった。

話は変わってこのあたりの相模川は牛池(現在の入谷駅)あたりを流れていたがこれに土手を作ろうとしてもなかなかできなかった。そのときこの話の「まつ」というままははを人柱(ひとばしら:堤防や橋などの下に村から選ばれた人間を生き埋めにし、その魂の力で建造物を守ろうとしたもの。若く美しい娘が犠牲になることが多かったという。)として土手を作った。その後川は西に流れを変え、その間に村ができた。

この土手の北を古川といい、そこに牛のようなけだものが住んでいた。これはまつの生まれ変わりだというが、死んだ後に川原に埋め、そこに大日堂を建てた。(西中学校の東側)

その後高間は帰ってきたが「瀧の下」(たきのした:現在龍源院があるあたり)の菩提寺に来てままははがしたことを知り、不憫(ふびん)な子らを嘆いて供養した後その死んだ場所に塚をつくって桜と柳を植えた。

座間古説の疑問

〔後妻とままははのまつ〕
この話は座間市でももっとも有名な悲劇的伝説で、「神奈川の昔話五十選」にも選ばれています。しかしよく読むと不思議な面があります。前半のいかにも浄瑠璃か歌舞伎のような演芸で日本人に好まれそうな話の部分に対して、突然話が土手の人柱のことに変わります。しかも前半は後妻とだけしか呼ばれない女性が、なぜかここでまつという名前で、しかも後妻ではなくままははという肩書きで呼ばれるのです。これは全く別の話だったのではないでしょうか?

〔人柱は刑罰か?〕
この文章にはまつがどういういきさつで人柱になったのか書かれていません。刑罰としての死刑ではない可能性も出てきます。

〔人柱になったもう一人のまつ〕
このやのふけのすぐ近くに全く違うまつの伝説があります。海老名市に伝わるものですが、こちらのまつは美人の生娘で、村のために堤防工事の人柱となりのちのちまでも感謝されて供養塔まで建てられています。しかし時代はずっと後のことで江戸時代、寛文(かんぶん)二年(1665年)とはっきりわかっています。200年へだてて同じ名前の女性が同じ場所で人柱になると言うこともあり得ないことではありませんが、ひょっとして2つの話が混同しているのではないでしょうか?

〔牛〕
牛のようなけだものとありますが牛とはどこが違うのか具体的な説明はありません。奇形の牛だっただけなのかもしれませんが古川の中に住んでいたような書き方から推測して水牛だったのでしょうか。それとも太った河童?はたまた日本版エレファントマン?不謹慎かもしれませんが、奇形だった人はかつては捨てられ、このような生活をしたかもしれません。これをまつの生まれ変わりとするのは古くから仏教説話によく見られる因果応報(いんがおうほう)のパターンです。罪を犯して死んだ親が牛になってこき使われているというような話は日本霊異記(にほんりょういき)や今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)によく登場します。やはり日本人がとても好むものです。
これが桜田事件とは関係ないものであることは明白ですが、当時の人の思想としてはおおいに関係あったわけです。

〔座間古説に同じ話がまた出てくる〕
なぜか同じ話がもう一度出てくるのですが、こちらは短く、奇妙なことに上記の疑問だけに答えているかのような書き方です。「まつにとって小桜ひめはままこである。まつは実の子である小柳を立てようとして小桜姫を絞め殺し、やのふけに沈めたことによるとが(罪)で人柱にされた。その後まつは牛に生まれ変わり、古川に住んだ。だからここを牛池という。その牛は本当の牛ではない。牛と呼んではいるが指が5本に分かれていて頭の毛は体を半分隠していた。この牛があがったところに大日堂を建てた。」
これでいくつかの疑問は解けます。まつは刑罰として人柱になり、しかも悪いことをした報いで想像するだに恐ろしい生き物として生まれ変わり、人々の記憶に永く残ったのです。そして現在座間市の歴史を語る書物のほとんどにはこちらの話が載せられています。
しかし!なぜこの話が座間古説の最後の方に再掲されているのでしょう?いかにも「とってつけた話」です。私まめこぞうは強い疑念を抱きます。あとからいいわけを書き足したのでは・・・・?

〔後妻を殺したのは誰か〕
この伝説を扱った本の中には「後妻は周辺の人々によって捕らえられ・・」というような表現があります。しかし座間古説には後妻を捕らえた人も死刑にした人も登場しません。ひょっとしたら自主的に人柱になったのではないかと思えるほどです。
たとえ死刑になったのだとしてもここでちょっと疑問に思いました。後妻といえども武士の妻が、主人の留守中そう簡単に死刑になるのでしょうか?土地の人々が武士の妻を殺せるでしょうか?それとも裁判権を持った地頭か何かが決定を下したのでしょうか?そうだとしても地頭に他人の家の内部のことを裁く権利があったのでしょうか?やはり主人の帰りを待つべきではないでしょうか?
江戸時代とは違ってこの時代の武士にはルールなどないも同然、たとえば道を行く旅人を捕らえて庭先で弓矢の的にするなんて言うのは普通だったそうです。敵でも何でもない生きた人間を的にして殺してしまうのです。それでも罪になりませんでした。それなのに家の中で親が子を殺して即死刑?
まるで急いで消してしまわなければならなかったかのようです。陰謀を感じてしまうのはテレビドラマの見過ぎだからでしょうか・・

他にも疑問があります。〔年代がはっきりしない〕
話の前後関係から見て室町時代の中頃であろうと思われますが、古説に扱われた話のほとんどは年号が明記されているのに、なぜかこの物語は長々書かれている割に年号がありません。
龍源院の由緒(ゆいしょ)では高間が屋敷を寺にしたのは寛正(かんしょう)二年(1461年)ですが、皇国地誌(こうこくちし)には永享(えいきょう)中とあります。永享なら1429~1441年です。

〔場所が違う〕
座間古説では渋谷高間が帰ってきたとき屋敷は「瀧の下」にありますが、龍源院の由緒によればこの屋敷は「丸山下(まるやました)」にあり、高間がそこを寺にしたずっとあと、弘治(こうじ)年間(1555~1558年、秀吉が信長に仕えだした頃で、桶狭間より前)に瀧の下に移されたことになっています。これは高間より100年もあとのことです。

〔高間はなぜ出家したか〕
出家の理由は世をはかなんで、とよく言われますが、桜田事件より前にすでに世を捨て修行の旅に出たのはなぜでしょう。

私まめこぞうはこの話を以前別のところで書いたとき、これらの疑問には一切触れませんでした。しかし0462.netに書くにあたってもう一度地名と年代を見直したときドキッとしてしまいました・・・すべてが結びついて疑問に答えることができるからです。
そこでいよいよ大胆な仮説発表!
小桜姫は渋谷の実子ではなく、護王姫の娘だったのでは?戦禍に追われ非業の死を遂げたと伝わる護王姫のことは以前お話ししましたね。あの護王姫です。

今まで誰もそんなことは口にしていないと思いますが・・・すでに発表されていたらごめんなさい。決定的な証拠もないのですが次回はその状況証拠を説明いたしましょう。


小桜の塚(右写真):現在でも田の中に1坪ほどの塚が残されています。ここは当時人も近づかない不気味な沼地でした。

第10話 三峯神社周辺の石造物

2002年10月04日 00:00

第10話 三峰神社周辺の石造物

三峰神社周辺の石造物

 市内には石造物がたくさんありますが、今回は三峰神社周辺のものをいくつか紹介しましょう。ちょっと専門的な話が多いですが、読んでいくとはまっちゃう・・・ってなことを目指して書いています。

榎庚申(えのきこうしん)

 三峰神社の東を守る庚申塔(こうしんとう)です。庚申という信仰については年末に書く予定ですが、ここの庚申塔には6本の腕を持った青面金剛(しょうめんこんごう)と見ざる言わざる聞かざるの三猿が彫られています。この庚申塔の前の細い道は前回書いた三峰坂です。この道は江戸から大山に向かう重要な交通路でした。昭和30年頃までここに大きな榎の木があり、旅人のよい目印になっていたため、榎庚申と呼ばれました。このように固有名詞がつくほど有名なものだったのですね。

青面金剛像

 青面金剛の顔は風化してしまい、表情はまったくわかりませんが、まちがいなくあの大魔神のような怒った顔をしていたはずです。(ちなみに大魔神は静かなときは埴輪ですが怒ったときは青面金剛がモデルです。だから顔が青いでしょ?30年以上も前の映画、知らない?)6本のうち2本の手に弓と矢を持ち、村に入ろうとする悪霊や疫病などと戦おうとしているようです。
一般の青面金剛像はさらに別の武器も持って武装しているものですが、榎庚申は軽装備です。
あいた2本の手で日輪(にちりん:太陽)と月輪(専門家は”がちりん”と読む:もちろん月のこと)を持っていますね。ひょっとして榎庚申は戦いよりも太陽の下での平和を主張しているのでしょうか?

そこに彫られた文字

 側面を見ると明和五年(1768年)に建てられたことがわかりますが、まだまだ江戸時代のまっただなかです。またみちしるべとしていくつかの地名も彫られています。
「右、ほしのや道」というのはすぐ坂下の星谷寺のことです。反対側の面には「右、江戸つるまみち、左、大山あつぎみち」とあります。
大山に近すぎるこのあたりに住む人にはむしろわからないかもしれませんが、江戸時代、「大山もうで」と称した旅が流行していたのです。江戸から大山まで、旅人のためにたくさんの道しるべが造られました。世田谷の三軒茶屋や目黒の大橋にも大山道と書かれた道しるべがあります。
ところで江戸と大山は漢字なのになぜほしのや、つるま、あつぎはひらがななのだと思いますか?おそらく漢字が読めない人への配慮だろうと考えられます。江戸時代の庶民は必ずしも漢字が読めません。それでも江戸と大山ぐらいはわかったでしょうが、そのほかの地名が読めずに方向を間違えたのでは道しるべの意味がありませんからね。

もう一つの庚申塔

 三峰坂の下にも文字だけの庚申塔があります。
こちらは新しく、明治八年(1875年)のものですが、やはりみちしるべになっています。
「右、東京、横濱、下りあつぎ、大山道」「左、原町田、きそ、ふちうみち」とあります。
明治のものですから江戸ではなく東京になったことを強調しているようですね。横濱も文化の最先端にあったのでしょう。
「きそ」というのは町田市木曽のことで、星の谷観音と同じ板東札所(ばんどうふだしょ)のお寺があります。詳しくはまたいずれ・・
「原町田」(はらまちだ)とは今の町田駅周辺のことですが、つい最近まで駅の名前もJRの方は「原町田」小田急の方は「新原町田」(しんはらまちだ)といっていたことを覚えている方はもう多くないかも・・・

 この庚申塔の正面に彫られた「庚申塔」の文字は見事な書体で、拓本(たくほん)をとって飾っておきたいほどです。しかし!・・・台座が失敗です。数年前この台座を動かしたとき、方向を間違えて据え付けられてしまいました。
「講中」という隷書体(れいしょたい:幕末から明治ぐらいにかけて石造物によく用いられた字体)の字が左を向いてしまっています。あれは前を向いていなくてはいけません!

三峰神社堂内の丸石

 お堂の中をのぞくとこぶし大の丸い石がいくつも並べてあります。これは何でしょう?
じつはまめこぞうもまだ知りません。ご存知の方はメールでお知らせください。(今回からまめこぞうへのメールを受け付けられるように「0462.net」の方でアドレスを用意して下さいました。)
丸い石のことを「丸石」(まるいし)「玉石」(たまいし)などと言います。

完全な球ではありませんがそれに近い形には神聖なものを感じたのでしょう。まん丸の石なんて川原にいくらでもあると思うでしょう?ところがめったにないのです。海岸ではさらにありません。まん丸の石は滝つぼや川底の穴(甌穴:おうけつ)の中で石が上下に回転し続けて研磨された場合にできます。特別な場所ですから特別な力を感じます。そういえば滝つぼと言えば龍を思い出しますが、龍は口に玉をくわえていますよね。(って龍は実在しませんが・・・)

 水の力で削られたもの以外にも、海底の泥の中でカルシウムや金属が集まって固まったものがあります。これをノジュールと言います。泥の地層の中からまん丸のかたい石が出てくればたいがいこれです。

ノジュールは化石を核にして固まる場合が多く、割れば中心から貝やカニなどの保存状態のいい化石が出てきます。(本当です。うちにもいくつかあります。)
 ここで話は大きくなりますが、このノジュールを見た大昔の人はなんと思ったでしょう?丸い石を割ると生物の死骸が出てくるのですよ?おそらくは石が生物を生み出す、卵のようなものと考えたはずです。日本語では「たま」というのが玉、つまり丸いものを意味するだけでなく、「たまご」でもあり、「たましい」でもあるのです。丸いものが生命と深く関係すると考えられてきた証拠です。
「丸石」はたましいのもとであると考えた人もいたでしょう。また生物を閉じこめたタイムカプセルと考えた人もいたでしょう。それを静かに安置しておくにはやはりおやしろが一番です。と、ここまでは一般的な丸石の話です。全国には無数の丸石がさまざまな形でまつられています。ということでこの神社にも丸石があるのでしょうか?
 いわくありげに語っておいて実は何でもなかったりしたら悲しいです・・・

金龍大善神

 三峰神社の前に建つ石塔に刻まれた文字は神の名のようですが、石仏図典、石仏事典、石仏信仰などの専門書を見てもその名はなく、困っています。明治四十五年に建てられたと言うことは三峰神社が寄せ宮された一年半後ですから、神社がなくなったあとにそれにかわるものとして造られたのでしょうか?三峰と龍の関係は?龍だから丸石がある?うーん、是非教えて下さい。

まめこぞう

ユーザー写真

ブログ説明

オリジナルカテゴリ

フォトギャラリー

207 / 212

全て表示する

カレンダー

総記事数: 39

2017 年 10 月
S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    

ページトップ

トップページ以下の構成(お店のページ以外)は予告なく変更されることがありますので、リンクはトップページ( http://www.0462.net )にお願いします。
このサイトに関するご意見・お問合せは  まで。

Copyright©Commerce and store confederation of 座間市商店会連合会. Japan, All rights reserved.