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第37話 なべっつるし

2007年10月30日 00:00

第37話 なべっつるし

第37話 なべっつるし


栗原中学校から芹沢へ下るゆるやかな坂道の途中に十字路があります。そこには昔、恐ろしい「なべっつるし」というおばあさんがいたという話があります。
なお、このページの最後に重要な話が載っていますのでそこまで読んで下さいね。

なべっつるしの伝説

そのおばあさんは四つ辻付近の山の中に住み、よれよれの服にぼさぼさの白い髪をたらし、鍋を藤づるで木からつるして獲物を待ちます・・
夕方薄暗くなった頃、たまたま子どもが坂を通りかかったらつかまえ、あっという間につるしてあった大きな鍋に入れてグツグツ煮て食べてしまうのだそうです。鍋をつるしているからなべっつるしと呼ばれ、芹沢あたりの子どもにとっては最大の恐怖だったようです。
ただ、いつの頃のことかというとはっきりはしませんが、昭和の十年代までは語り継がれていたとか・・

なべっつるしの場所


 栗原中学校の東端から芹沢の集落へくだってくる現在の道路は、自動車のために最近つくられたもので、昔の坂道は写真左上の石垣に沿っていました。そこには今でも人一人がやっと通れる細い道がありますが、ここが道であることはもはや地元の人でもほとんど知りません。
宅地化が進んで木も切られましたが、ちょっと前までは新しい道を自動車で通っても薄暗い感じがしました。こんなところに鍋をつるした老婆が隠れている・・と言われたら確かにいそうにも見えました。

ここが道です。今でもけっこう木が生えています。

壁に平行に見ると道がわかりますか?

栗原中学校側から見た現地です。

なべっつるしは実在したか?


 そんなおばあさんがいたら恐いですね。ひょっとして過去に本当にそんな猟奇的殺人事件があったのでしょうか・・。
いやいや、おそらくは夕方遅くまで遊んでなかなか帰ってこない子どものことを心配した親が、いましめのために作った話ではないかと思うのですが、どうでしょう?
だいいち鍋を木につるし、必要なときにおろすなんて実際にはとっても面倒ですよね?

今や有名ななべっつるし


 なべっつるしは芹沢の一部に言い伝えられていた話で、地元でも知っていた人は多くなかったといいます。場所があまりにも具体的ですが、これはお話を「作った」ご家庭の子どもの通り道だったからでしょう。

 それが世間に知られるようになったのは2段階あります。
まず最初は「座間むかしむかし 第八集」(昭和59年 座間市教育委員会発行)に掲載されたことです。まめこぞうもこれで知りました。
 さらに「座間のむかし話絵本Ⅲ『なべっつるし』」(平成10年 座間市教育委員会発行)が発行され、市立図書館だけでなく、市内すべての小中学校に配布されたことでもっと広く知られるようになりました。
 この絵本はとても見やすく、多くの子供達に読まれてきました。今これを読んでいる座間市民の方の多くも一度はこの絵本を目にされたことがあるのではありませんか?

この絵本、実はすごいのです!
インターネットで「なべっつるし」を検索すると多くのサイトがヒットします。その中のいくつかは日本中の昔話絵本を紹介する物で、なんと、「なべっつるし」が超大物の「ももたろう」や「ヤマタノオロチ」と同列に扱われているのです。
あらら、なべっつるし、いつのまにか全国区です。そんなに有名になりつつあることを座間市民が知らないでしょう?

話はかわって 「一反木綿」


 漢字で書くと??と思われるでしょうが、「いったんもめん」と言えば知らない人はいないでしょう。鬼太郎の仲間で、白くてひらひらと空を飛ぶ妖怪です。他に「子泣き爺ぃ」「砂かけ婆ぁ」「塗り壁」といったレギュラーメンバーが有名ですが一反木綿は水木氏の創作ではありません。九州、鹿児島の小さな村に言い伝えられていた話なのだそうです。
一反木綿はいたずらが好きで、子どもが夕方遅くに道を歩いていたりすると空から舞い降りておどかすのだそうです。本来の一反木綿はただそれだけのことしかしないのです。それがだんだん「首に巻き付いて絞め殺す」とか「カッターのように相手を切る」といった凶悪な能力が付け足されていったようです。
ふと考えるとこれも帰りの遅い子どもを心配した親が作った話なのかもしれませんね。

さらに 「しまっちゃうおじさん」


 マンガ「ぼのぼの」の中で主人公の「ぼのぼの」が不安になると勝手に想像してしまうキャラです。「さぁ、しまっちゃおうね」と優しく言いながら子どもを抱き上げ、石の小部屋にしまっちゃうのです。ぼのぼのはこれを異常なまでに怖がります。
うちの娘もこのアニメを見てなぜかとても怖がるもんですから、悪いことをしそうなときとか暗くなるまで帰りたがらないときなんぞに「しまっちゃうおじさんに、しまわれちゃうんだ」と言うと、びぇーびぇー泣きながら抱きついてきました。かわいいもんだ。

小中学生諸君!


 学校から下校するときはさっさか歩いてまずおうちに帰りましょう。道ばたで暗くなるまで話しているのも楽しいひとときですが、あなたが考えている以上に夕暮れ時以後は危険がいっぱいなのです。
いったん帰宅してから遊びや学習塾に行ったときも同じですよ。
現代のなべっつるしは自動車に乗ってやってくることが多いです。道を聞くふりなどしてうまいこと車内に入れ、あっという間にどこかに連れ去ります。歩いてやってくる場合もあります。むしろこちらの方がいざというとき逃げにくくてやっかいです。
これを読みながらあなたは「そんなの自分は大丈夫」と思ってるでしょう?
新聞やテレビに出ないから何もなかったと思ったら大間違い!
実は・・・まめこぞうの知り合いに、何人も恐い目にあった人がいます。これは伝説や作り話ではありません。お父さんやお母さん、学校の先生や地域の方々が子供達の安全について真剣に考え、さまざまな取り組みをしていることを知っていますか?
PTAや自治会などでも皆さんを守るためにしょっちゅうパトロールをしています。しかしすべての子どもに対して常にくっついて見ているわけにはいきません。本当にあなたを守れるのは、あなたしかいないのです。
何よりも帰りが遅かったとき、お父さんやお母さんにしかられたことがあるでしょう?その時は「うるさいなぁ」と思ったでしょうが、危険はそこいら中にあるのです。
それでもおとなから「心配だよ」と言われれば「心配してくれなんて頼んだ覚えはない!」などと反論したくなっちゃうのが反抗期。
あと何年かしてあなたが親になったとき、きっとその心配が本当にわかりますよ。そしてあなたも自分の子どもに言われるかもしれません・・「まじ、うぜぇ! あんたに関係ないでしょ!」

ちなみにまめこぞう自身は自分の親にそんなこと言ったこともないし、自分の子どもにも言われたことがありません。

第36話 道祖神研究にもの申す

2007年06月30日 00:00

第36話 道祖神研究にもの申す

道祖神研究にもの申す



でも先にちょっと紹介・・石臼を使った多重塔道祖神


前回に引き続き、ごろ石の多重道祖神です。
今回の主役は畑の真ん中にぽつんと立っています。住所は栗原ですが、座間日産の西側、近代乗馬クラブのさらに西100m程の所です。


五輪塔(ごりんとう)や宝篋印塔(ほうきょういんとう)の一部を積み重ねる道祖神はたくさんありますが、ここも上から「宝篋印塔の相輪(そうりん:一番上の部分)」、「五輪塔の火輪(かりん:屋根のような形の部分)」が3つ、「五輪塔の水輪(すいりん:丸い部分)」が一つ・・
ここまではよくあるパターンです。しかしその下にもう一つ土に埋もれかけている石が・・
よく見ると円柱形で側面に四角い穴が開いています。

これは石臼(いしうす)です。
しかも古い写真を見るとさらにその下に宝篋印塔の漣座(れんざ:一番下の部分)が写っています。おそらく少し掘れば顔を出すのではないでしょうか。

石臼は


昔は穀類を粉にするのに無くてはならない道具でした。
今はきなこでも小麦粉でも機械でひいた物を買いますが、昔は自分のうちで作ったんですね。微妙な角度と太さで刻みを入れた2つの円柱状の石がうまくかみ合い、その間に入れたものをすりつぶして横からこぼれるように出すしかけになっています。
この道祖神に使われているのは石臼の上半分です。なぜなら指1本ぐらい入りそうな側面の四角い穴があるからです。これは臼を回すためのハンドルを取り付けた所です。

壊れたり不要になった石臼をサイトバ(道祖神がまつられる場所)に置くことは珍しくありません。市内でもさまざまな場所で見かけます。ただし扱いは粗略で土に完全に埋まっていたり離れた場所に放置してあるのが普通です。
昔は使い古した道具にも魂が宿ると考えられており、たとえ壊れて使用できなくなってもそこには魂があるのだからひどい捨て方はしないか、または魂が宿る前に壊して捨てるようにしたようです。
割り箸(ばし)を折って捨てるというのはそこからくるのだそうです。
妖怪図鑑のようなものを見ても、本来生き物ではない生活道具に手足がはえて動き回る物がたくさんあります。

余談


最近は逆に石臼を使う人が増えているといいます。本物にこだわる人のそば、コーヒー、抹茶などをごりごりやって粉にするためです。
すごいそば屋さんで「石臼びき」を看板に掲げているお店もありますね。
コーヒーを石臼でひいた人の話によると、機械よりまろやかな香りが出るんだそうですが、臼を回すのが大変疲れる作業であるうえに、思っていたよりなかなか多くの量がひけないのだそうでだんだん飽きるとか・・
昔の人は飽きるとか言ってられなかったんですよね。
お茶なんか石臼でひいたらなくなっちゃいそう・・

ここで本題!

道祖神研究者にもの申す


この道祖神は、座間市の文化財調査報告書「座間の石造物 道祖神・庚申塔編」ではごろ石が7個重なっていても一つの道祖神として数えられています。前回の寒川橋の物も3基(き:石造文化財を数える単位)と数えられています。しかしです。これは重ねて一つの物でしょうか?
もともと多重塔として作られた物でないことは読者の皆さんはご理解いただけていると思います
五輪塔は5つ重ねて1基です。でもごろ石は一つひとつが独立したごろ石なのです。そして何より重要なのは昔の人が一つひとつのごろ石を「道祖神」と呼んでいることです。ならば今回の道祖神は「7基(き)」と数えるべきではないでしょうか?

ずっと前に鳩川沿いにお住まいの方から「川底をさらったら道祖神が出てきた」という話を聞き、見に行ったらそれは五輪塔の一番上、空輪と風輪でした。当時まめこぞうは子どもだったのでそれが理解できませんでした。道祖神というのは文字で「道祖神」と書いてあるか、双体や単体の神像・仏像が彫ってあるものと思いこんでいました。どの町の文化財報告書にもそう書いてありますから。しかしどんど焼きで火にくべる「道祖神」も空輪・風輪だったりするのを見るうちに、本に載っている道祖神と民間のそれは微妙に異なることに気づきました。
さらに、人々により近い道祖神は実はごろ石の方であったと感じるようになりました。

昭和の後半でしたか、道祖神ブームとかいわれるおかしな流行があり、道ばたの道祖神が持ち去られることが頻繁にありました。でもそれはすべて双体道祖神でした。男女の神が手を握り合っていたり抱き合っているすがたがほほえましいとマスコミなどでも紹介され、それに乗って道祖神の性的な面ばかりが誇張されて大騒ぎでしたよね。かなり不思議な道祖神を新しく作ることも流行しました。
道祖神はオールマイティな神様ですからどんな願いを込めて作ってもいいと思うのですが、古来の、本当に民間で信仰されていたごろ石やあるいはもっと別の形の道祖神を数えないようでは研究としてまったく成り立たないのではありませんか?(力説!)

座間市内でもごろ石がごろごろ転がっているところはたくさんあります。地元の人はこれを道祖神だと言います。しかし調査報告書にはまったく載りません。ごろ石はもともと道祖神として作られた物ではないから数えないという考え方は少し理解できます。しかし積み重ねてセメントで固定し、本来あり得ない形にすると載ります。

さらにその調査報告書だけを見て地域の道祖神を研究している方々は、報告書にある数がすべてになっています。「○○の地域には道祖神が少ない。これは信仰が・・」などとおっしゃる方もいらっしゃいますが、そこにはごろ石がたくさん転がっていたりするのですが・・こういう研究は「あり」ですか?
乗馬クラブ近くの道祖神だってバラバラだったら数えてもらえなかったんでしょうね。ましてや石臼なんて絶対道祖神の仲間に入れてもらえっこないですよ。

市内でさらに疑問なことがあります。古い道祖神が風化やどんど焼きの熱でぼろぼろになったため、あとから同じ場所にもう一つの石塔を建て直した場合がいくつもあります。地元の方々の信仰や努力があってのことです。しかしこれを調査報告書は「新しい塔が旧塔に並立している」と言い、2基と数えます。確かに2基あります。でも壊れたから建て直した、壊れた方も捨てられないので残した、と言う場合は2基なのでしょうか?それならごろ石の方がもっと数えられるべきもののはずです。



さて、今回はちょっと難しい話でしたが皆さんのご意見は?

第35話 多重塔道祖神 その1

2007年06月02日 00:00

第35話 多重塔道祖神 その1

第35話 多重塔道祖神 その1


 座間市には、はっきりわかる形のものだけで30を超える道祖神(どうそじん)の石造物(せきぞうぶつ)があり、どんど焼き(サイトバライ)などの行事も毎年行われています。今回はこの中から少し変わった道祖神を紹介します。道祖神のことはこの「まめこぞうの旅」第13話をご覧になって下さいね。

南栗原5丁目12番、目久尻川にかかる寒川橋(さむかわばし)の前に不思議な石の塔があります。座間市教育委員会発行の「座間の石造物 道祖神・庚申塔編」にはその形について「多重塔形」と書かれています。あたかも四重・三重の塔として作られたかのようですが、かなり古い時代の五輪塔(ごりんとう)と宝篋印塔(ほうきょういんとう)の一部を積み重ねたものであることはあきらかです。

流転の石造物

 この寒川橋のそばにもともとあった五輪塔などが目久尻川があふれたときに下流に流されてしまい、一部を失って塔を形作れなくなりました。このようなバラバラの石を石仏の専門家は「ごろ石」と言います。ごろ石は本来の意味(墓碑や供養塔)を失い、道祖神と呼ばれるようになりました。
このようにごろ石を道祖神と呼んで新たにまつるのはどこでも見られることで、道祖神は毎年小正月(こしょうがつ:1月15日ごろ)の前日にサイトバと呼ばれる共有地で火の中に放り込まれます。これをサイトバライ、セートバレエ、またはどんど焼きなどと言いますが、寒川橋でもサイトバライが行われていました。ごろ石は大きさ・形がサイトバライにちょうどいいいようです。

昭和8年(1933年)の5月、近くに家が建ったため火を扱えなくなり、ごろ石とともにサイトバを道路沿いに数十m北側へ移し、さらに文字ではっきり「道祖神」と彫った石塔も作りました。
 しかしこのあと近くで病人が多く出るという不思議な事件が起きたため、すぐにごろ石を元の場所に戻したのでした。

もとの場所には市内でも最高と言える基壇が作られ、ごろ石はその上に積み重ねられ、今でもお供え物などがよくしてあります。

ちなみに昭和8年に建てた石塔の方はその後のサイトバライのたびにすり減り、ついには割れてしまいました。そこで新しい白いものを昭和59年(1984年)に作り直し、この石塔の隣に並べて建てました。

 神社や墓、石仏などを勝手に移動するとこのようなたたりがあると全国で多くの人が信じていますし、市内にもそういう話がいくつもあります。また、石造物やお墓がひび割れたりかけたりしたまま放置しておくことも大変によくないことと言われています。
まめこぞうの母方の墓も東京大空襲で焼かれ、その熱で割れてしまったのですが、戦後落ち着いてから建て直しました。

ごろ石にせまる!

写真の右: 五輪塔の火輪(かりん:屋根のような形の部分)が3つ重なった上に宝篋印塔の相輪(そうりん:塔の先端部分)が乗っています。火輪のそりぐあいが3つとも違うので、これが1つの三重の塔として作られたのではないことがわかると思います。

写真の中央: 宝篋印塔の基礎に五輪塔の水輪(すいりん:丸い部分)と火輪が乗っています。

写真の左: 火輪だけが4つ重なっています。一番上のものだけ色が赤っぽく、一番下のものには四方に梵字(ぼんじ)が読み取れます。

五輪塔には上からキャ、カ、ラ、バ、アという5つの梵字が刻まれることが多いのですが、これは東西南北の方向によって微妙な違いがあります。(図参照)
ちなみにこの5文字は空、風、火、水、地の5つを表します。この5つが全ての物質を作る元素であるという考えがとても古い時代にはあったのです。
この寒川橋のごろ石で梵字を読みとることができるものは一つしかありません。東側の塔の一番下にある火輪です。この火輪は4つの面にラ、ラー、ラク、ランが刻まれていることがはっきりわかります。

ラー

ラク


ごろ石に多い形

 五輪塔、宝篋印塔ともバラバラになったらどの部分も同じ確率で残っていいはずなのに、寒川橋では火輪8個、水輪1個、相輪1個、基礎1個が残っています。これは明らかに火輪が残る確率の高さを示しています。
西中学校の横にあるごろ石は圧倒的に宝篋印塔の笠の部分が多く、次回紹介する乗馬クラブ近くのごろ石塔もほとんどが火輪です。
なぜか・・・?

おそらく直方体の部分は別の目的に使用するため、持ち去られたのでしょう。真四角だから使いやすいのです。笠や火輪は上下で大きさが異なるため再利用しにくいのでしょう。
また先端の空輪・風輪はつながって一つになっており、これをひもで縛ってサイトバライで火にくべることが最も多かったと言いますから、熱でぼろぼろになって残っていないのかもしれません。相輪も同様でしょう。


ちなみに丸い水輪に関して冗談かもしれませんが、「漬け物石にちょうど良い」と言っている人がいました。たしかに・・

それとも火輪だけを積むというのはサイトバライの「火」と関係があるのでしょうか・・
また水輪だけを積むのも火と正反対の「水」を重ねることに何かの意味があるのでしょうか・・

おまけ 参考写真

海老名市大谷、コジマのそばにある宝篋印塔

笠から上が無く、そこに小型宝篋印塔の基礎部が乗り、さらに五輪塔の水輪、空・風輪が乗っています
バの梵字も見えます。

何でもいいから乗せるというのはあまりにひどいような気がします

鎌倉の山奥にある「やぐら」といわれる横穴墓にある五輪塔
ラ、バの梵字がはっきり見えます

これまた鎌倉のあるお寺にある
水輪を積み上げた塔
てっぺんは空輪・風輪です
かなり大きいです

箱根にある「曽我兄弟の墓」といわれる五輪塔
最高にかっこいい!

第34話 一つ目小僧地蔵

2007年01月08日 00:00

第34話 一つ目小僧地蔵

第34話 一つ目小僧地蔵


市内某所にある墓地のすみに「一ツ目小僧地蔵菩薩」と刻まれたお地蔵様が立っています。これは伝説ではなく、本当にいた「一つ目小僧」の霊をとむらうために作られたものです。
今回の話はさまざまな問題を抱えていますので、おもしろ半分に読まないでくださいね・・

決定的証拠の頭蓋骨発見


昭和7年(1932年)、お墓を作るために土を掘っていた人が、偶然頭蓋骨(ずがいこつ)を掘りだしました。昔は土葬(どそう:遺体をかんおけごと土に埋める方法)それ自体は決してめずらしいことではなかったのですが・・

その頭蓋骨には、2つあるべき目のくぼみ(眼窩:がんか)が真ん中に一つしかなかったのです。
さらに額(ひたい)には角(つの)のようなものが2本はえていたといいます。

かなりの大騒ぎになったようです。地元の人々が集まり、警察官までもが事実を確認し、その骨を別の場所に運びました。

その後は

 何度か場所を変えて埋葬されましたが、今はその正確な位置がわからなくなってしまいました。
お墓の持ち主はこの骨の主をとむらうために掘り出された場所に石の地蔵菩薩をたて、今でも欠かさずに供養を続けていらっしゃいます。

地蔵のお堂です。
これはお墓を改修する前の写真です。
今は感じがかなり変わりました。

お堂の後ろに立てられた卒塔婆(そとば)です。
書かれた文字に注目!

誰だったのか?


一つ目小僧などと呼ぶと妖怪のようですが、妖怪などではなく、れっきとした一人の人間であったはずです。ただ肉体的(にくたいてき)障碍(しょうがい:最近は障害という字を使わないんです)を持って生まれただけだったのでしょう。

しかし

「この人」が男だったのか女だったのか、
地元の人だったのか外からやって来た人なのか、
病気で死んだのか殺されたのか、
なぜここに埋まっていたのか
いったいいつごろ生きていたのか
何才だったのか‥

すべては謎です。ただ、周囲の人々がまったく知らなかった事から見て、「この人」は昭和よりずっと前、おそらく江戸時代に生きていたのではないかと思われます。

まめこぞうは思う


 今と比べて人権に対する考え方がひどいものだった昔、「この人」の送った人生はなみたいていのものではなかったでしょうね。一般的な人と何かがちょっとでも違えば徹底的に差別された時代、特に障碍者に対してはかなりの差別があったようです。
体の部分ごとに不自由な状態を表す差別的な言葉があり、いちいちその状態をバカにするのにつかわれました。障碍が重度の場合は人前に出るだけで石をぶつけられる場合もありました。明治時代、野口英世さんがいじめられた話は有名ですよね。
子が生まれながらに障碍を持つのは、親や先祖が悪いことをした報い(むくい)だという間違った考えが広まっていましたので、家族までが差別されることもありました。

昔は畑仕事などで間違って目を傷つけ、それが原因で失明してしまうことも多くありましたが、それでさえも「片目」だ「一つ目」だとさげすまれたのです。そんな中で生まれつき目が一つだった「この人」はどうやって生活していたのでしょう? そんなことを考えるとまめこぞうはうるうるしてしまうのでした‥

 ちょっと話がそれますが、まめこぞうが子供の頃、お祭りの見せ物小屋で顔が人で体が蜘蛛(くも)の「蜘蛛女」とか、あり得ないものを見せて金をとる興行(こうぎょう)の客引きが
「親の因果(いんが)が子に報い~・・かわいそうなのはこの子でござ~い」
なんて言ってましたっけ。差別そのものを売り物にしてるわけです。まぁ蜘蛛女なんてニセ物でしたけど。でも19世紀のロンドンでは「エレファントマン」と呼ばれた人が実在し、見せ物にされていました。洋の東西を問わず、人は皆同じなのでしょうか・・

他にも実在したかも


一つ目小僧というと多くの人はこんな姿を想像しませんか?これはマンガの一休(いっきゅう)さんなどでおなじみの「寺で修業(しゅぎょう)する子供」、「小さな僧」、つまり「小僧」のかっこうです。だから一つ目小僧と呼ばれるのですが、なぜ一つ目さんは寺の小僧をしているのでしょうか。

 「百鬼夜行」(ひゃっきやぎょう、またはひゃっきやこう)などという妖怪図鑑のような絵に一つ目小僧が登場して有名になったという理由もあるでしょうが、本当は日本のどこかに実在していた人なのではないでしょうか。

 「単眼症(たんがんしょう)」といって、目が一つしかない状態で生まれる症例があるそうです。脳も左右に分離していないので生まれる前後に死んでしまうのだそうですが、まれに生き残る事もあったかもしれません。すぐ殺された場合もあったかもしれません。殺すのもかわいそうと思った人が生きたまま捨てたら・・多くは犬に食われてしまったそうですが、もしお寺の関係者が拾い、寺の中にかくまって育てていたとしたら…
いくら寺であっても人目に触れさせるわけにいきません。昼は室内に隠れて仏の道を学び、夜には寺の仕事として境内(けいだい)の掃除をしていたかもしれません。
そんなところを誰かに見られてしまったら・・・夜のお寺に一つ目の子供がいたら…それはだれもがお化けや妖怪と思うでしょうね…
一般に一つ目小僧は突然現れて人をおどかすが、それ以上の悪さはしない、と言われているのはこのためかもしれません。
まめこぞうの勝手な想像ですが。

まめこぞうは国立の大きな病院で医師をしている友人からこんな話を聞きました。
「今でも体の形が大きく異なる子は時々生まれるんですよ。あるべき部分の数が多かったり少なかったり、ついている場所が違ったり。手術で何とかできる場合は何とかしますが、できない場合は・・・」
そうなんですか・・・そう言えば日本の神話にも登場しますね。イザナギノミコトとイザナミノミコトの間に最初に生まれた子は人の形をしておらず、父であるイザナギノミコトはそれを流したと・・
2千年以上前の神話時代とほとんど変わってはいないのですね。ベトナムの病院では、ベトナム戦争の枯葉作戦でダイオキシンを浴びた村で生まれたさまざまな形の赤ちゃんが今でもホルマリンづけで展示されています。その中には目が一つどころか目が一つもないもの、体のパーツがついている位置が大きくずれているものなどさまざまです。
ブラックジャックはピノコを救ったけれど、それはマンガの中です。

再び「この人」について


 座間の「この人」は小僧さんであったわけではないでしょうから「座間の一つ目小僧」と呼ぶのは正しくないと思います。しかしその名はこの「まめこぞうの旅」で紹介するまでもなく大変有名で、さまざまな本に掲載されて全国で出版されています。ただ、どの本も「この人」を妖怪のように扱い、おもしろがっているだけです。
まめこぞうもここにこんな事を書いているのですからその本を書いた人と同じなのかもしれません。しかしこれを読んでいるみなさんは興味本位でこれ以上「この人」のゆくえを探さないであげてください。

追伸  障碍者を取り巻く社会


 まめこぞうの母は重度(じゅうど)身体障害者(ここではあえてこの字をつかいます)です。
片方のひざがまったく曲がりません。生まれたばかりの私を抱きかかえてころんだときのけがが原因でひざの関節が腐ってしまい、取り除いて金属棒で固定したのです。ころんだ瞬間私を手放すわけにいかず、道路に勢いよくひざをたたきつけたのだそうです。
脚が腐り始めたとき、医師から「良くて片足切断、悪ければ死ぬ」と宣告され、私を育てること以外のすべてをなげうって大手術を何度もしました。合計で何年間も入院していました。
自分が小さかった頃の思い出といえば、KO病院に通った日々と退院しても家で寝たままの母の姿です。
 その母がやっと少し外に出られるようになった頃、私は母と手をつないで歩きました。うれしくてではなく、母の体を支えるためです。(役には立っていなかったかもしれませんが)
ところが、買い物に出た時の街の人々の反応は子供の私が見てもびっくりするものでした。すれ違う人の多くが恐ろしい物を見るような顔をして母の脚をにらむのです。めずらしかったのでしょう。見られるだけなら何でもないのですが、知らない人々がわざわざ「あれ?びっこなの?どうしたの?」と声をかけてくるのには困りました。(注:あえて差別語を記載しました。事実そう言われたのですから。)外出すれば必ずと言っていいほど声をかけられました。中には「頑張ってね」という人もいたのですが、よけいなお世話です。普通に歩かせて欲しい。
 何もしていないのにすれ違ってからこちらを指さし、差別語でののしった人もいました。母は毅然として戦っていました。
 脚が曲がらないので座席に普通に座ることができないのですが、バスの中で立っていたら一見親切な人が席を譲ってくれました。母は感謝の意を表しつつ理由を説明して丁重にお断りしたのですがその人は「せっかく譲ってやったのによう!」と怒り出してしまいました。見かけだけの親切。
私は子供心に思いました・・なんてかわいそうな人たちなんだろう。
これは昭和中頃、東京都のまちなかでの話です。


 そのちょっとあとから世間では古くからある数々の差別語を消し去るために「放送禁止用語」などといって使うことを禁止し出しました。障害はすべて「不自由」という表現にかえられました。全部ひっくるめて「身体障害者」という言葉が定着していきました。テレビでは「座頭市」なんか差別語だらけなので再放送できなくなってしまいました。何だか逆に不自由になったような気がしました。
差別語を消し去れば差別がなくなると思ったのでしょうね。ところがです。その頃から小中学校で流行し出した言葉は・・・
「おまえは顔と頭が不自由だな」
「おまえ、身体(しんたい)じゃねえの?」
「あいつしんだぜ!さわんな、しんがうつる!」
そうです。身体障害者という新しい言葉そのものが差別につかわれ出したのです。

差別語を力でただねじ伏せても、人の中に差別する心がある限り、何も変わらないのです。

子供が悪いのでしょうか?学校が悪いのでしょうか?
いえ、街の大人達による我が母に対する数え切れない差別(というか迫害に近い)を小さいときから見てきた私は違うと思ったのですが・・

 それから数十年、世の中は障碍者にとってちょっぴり良くなってきました。母は30代で運転免許を取得し、特殊仕様車を操ってどこにでも行ってしまうようになりました。北海道も父と交代で運転して一周してきました。富士箱根伊豆や房総半島なんか数え切れないほど回ってほぼすべて知り尽くしています。もう70過ぎたというのに毎週何回か数十キロ離れたところまで通って仕事をしています。不思議な難病にかかって体が動かなくなっている父は街の人々に支えられて笑顔で生活しています。そういうことができる時代になったんです。
日本が今、「美しい国」になりつつあるということを感じます。

まめこぞう

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