第14話 高座海軍工廠 前編
高座海軍工廠(こうざかいぐんこうしょう)前編 |
座間市の東部は台地の上にあり、相模野と呼ばれるほとんど平らな土地が広がっています。 ここには太平洋戦争末期、高座海軍工廠という大工場がありました。 |
■海軍工廠とは 旧海軍の艦船、航空機などの兵器を作ったり、修理、実験などを行う工場のことです。 横須賀を筆頭に呉、佐世保、舞鶴など全国にたくさんありました。神奈川県内には他に最近イペリットが入ったビール瓶が発見されて大騒ぎになった、寒川町の「相模海軍工廠」があります。 |
■高座海軍工廠は 海軍の工廠でありながら海から離れた座間にわざわざ作られたのは、艦船ではなく航空機建造のためです。 戦時中、高座郡は軍都と呼ばれ、その広大な土地の多くを軍が使用していました。相模原から座間北部にかけては(当時は一つの町でしたが)陸軍が士官学校(現キャンプ座間)、野戦病院(現国立相模原病院)、練兵場(れんぺいじょう:相模台、麻溝台、新磯野、相武台あたりのすべて)などを置き、大和や綾瀬には海軍が海軍航空隊(現厚木基地)を置きました。座間に海軍工廠が敷設されたのはそれらに近かったことに加え、平らな地形と相模鉄道(現相鉄線)があったことが大きな理由でしょう。 この工廠は計画段階でのコードネームを「空C廠」(くうしーしょう)と言いました。Cって敵性語じゃないんですかね?海軍はそういう小さいことにこだわらなかったのかな? 厚木飛行場は開戦の年、昭和16年に建設されたのですが、高座海軍工廠は戦争も終わりに近づいた昭和19年5月にスタートしています。 |
■造っていたのは ここでは主に「雷電」(らいでん)という戦闘機を造っていました。海軍の戦闘機と言えば私のような戦後生まれでも知っているのは「零式艦上戦闘機」(れいしきかんじょうせんとうき)、いわゆる「零戦」(れいせん)です。これを連合国はゼロと呼んでいましたが・・ しかし連合国の攻撃が日増しに厳しくなってきた時、零戦より速度や上昇能力が上回る戦闘機の量産が急務になりました。それが雷電です。 |
雷電は爆撃機用の大型エンジン「火星」を積むことで能力を上げることに成功しましたが、エンジンが大きすぎて機体の最前部に取り付けると空気抵抗が大きすぎ、やむを得ず少し後ろに取り付けたためプロペラとエンジンの距離が開いてしまいました。このためプロペラをまわす軸が長すぎて機体が振動してしまうという欠点がありました。 また、着陸速度が速くて操縦には高度な技術を必要としました。さらに、大きなエンジンを覆った機体そのものが太く、操縦席からの視界がかなり悪いという致命的な欠点から、進んで乗りたがる操縦士は少なかったようです。 しかし本土を爆撃に来たB29が零戦では追いつけない高々度を飛行しているところに雷電が自慢の上昇能力を生かしてくらいつき、撃墜したことがきっかけで本土防衛の要として雷電増産が急がれるようになったのでした。 |
■工廠と道路 工廠は現在の座間市さがみ野、東原、ひばりが丘、そして海老名市東柏ヶ谷にわたっていました。工廠概略図と現在の地図を比べてください。工 廠内の大きな道路が現在も主要な道路として残っていることがわかります。 また、工廠だった区域の道路はほぼ東西南北にまっすぐ造られているので、現在でもその範囲がわかりやすくなっています。 |
南北方向の大きな道は桜並木の道とひばりが丘交番から朝日新聞社を経て中村屋の工場の方に抜ける道です。この2つは幅が当時は40mもあり、現在はその西半分をつぶして宅地や工場、店舗、公園などにしてあります。 たとえば桜並木の西側に隣接した部分では、東原小学校体育館、座間市消防署東分署、東原保育園、東原コミセンなどの土地はもともとこの道だったところなのですが、実はここ、道路と言うより航空機の滑走路だったのです。(このまめこぞうの旅第2話も見てください) |
東西方向の大きな道路は北から・・東中学校とひばりが丘小学校の間の道、国道246号線、相模健康センターから県営住宅を結ぶ大きな花壇のある道の3つです。 健康センターの前の道路は車道と同じぐらいの幅で花壇と歩道がありますが、これら全部を合わせた部分が当時は道路だったわけです。 |
東西方向の道:この花壇と両側の車道、 歩道などが道だったところ |
滑走路あと:右のさくら団地は第2組み立て工場跡 |
先日、東原小学校の先生が校庭の東端で花壇を掘っていたら、固く突き固められた粘土の層が出てきて困ったという話をしていました。それこそまさに滑走路そのものなのでしょう。今度掘る時は私も呼んでもらうことになっています。 |
滑走路南端:桜並木とその左側の公園も 元滑走路でした。右の建物は第1組み立て |
組み立て工場 第1から第5までありましたが、第1工場は現在の県営住宅、第2工場がさがみ野さくら団地、第3工場がさくら公園、第4、第5工場がコナミや朝日新聞社になっているところです。大きな木造の建物が建っていたようです。 その他の施設 ・さがみ野駅前の相鉄ローゼンなどが総務部でこれが工廠の南端でした。 ・反対の北端は東中学校の敷地で、ここが工員養成所でした。グラウンドを掘ったら何か出てくるのでしょうね。 ・ひばりが丘4丁目の東端とさがみ野1丁目の真ん中あたりに高射砲(こうしゃほう:空襲時に空に向けて撃つ大砲)が複数あったことに驚きます。 ・南中学校のそばに地下変電所がありました。 工廠概略図の左の方に、矢のような直線が多数ありますが、これは地下壕を表しています。これについてはまた後編で詳しくお知らせします。 |
おねがい もともとここはこんな場所だった!などと暴かれることを好まない方も多いと思います。しかしまめこぞうはこの町に工廠があったということが昭和史の遺産として語り継ぐべき大きな事実であると考えます。ご理解下さい。 それから今でも当時の何かが残っていないでしょうか?もしご存知ならメールでお知らせ下さい。(たとえば海軍施設であることを示す標識石、高射砲の台だったコンクリート、工廠の機械や道具の一部、滑走路の面、引き込み線の一部などなど)戦後60年たとうとしている今、歴史を語る証拠がもし残っているなら、それが完全になくなってしまわないうちに何とかしたいと思うのです。その場での保存が難しいなら公共施設に場所を移してもいいと思います。 |
海軍標識石:海という字が彫られている。 写真は海老名市大谷のもの |
今回の内容はインターネットでもたくさん紹介されていますので是非そちらもごらんになって下さい。「高座海軍工廠」「空C廠」「雷電」などをキーワードに検索するとものすごい量のサイトがあることがわかります。つまりこの工廠の歴史は座間だけの物ではないのですね。全国区、いや、世界的な歴史なのかもしれません。 次回は中編として工廠で働いていた人々について、また後編は地下工廠についての予定です。 |