第2話 桜並木
2002年03月18日 00:00
桜並木 |
座間市の名所の一つに桜並木があります。北は小田急相模原駅の西方から東中学校の西隣を通り、さがみ野駅の方へと続く道です。入学式のシーズンになると見事に咲きほこるその桜は、今となっては考えられないような用水路の完成を祝って植えられたものだったのです。 |
用水路がつくられる以前 |
座間市は相模川が作る河岸段丘から成り立っています。西の相模川に近い方には水を得やすい低地があり、ここは水田として利用することが多いですね。これに対して東部の台地は水を得にくく、昭和以前はよくて畑地、ほとんどの土地はそれもできない「柴原」(しばはら)でした。昔話でおじいさんが柴刈りに行く、あの柴です。昭和の初め、相模原や座間は一大軍事都市となり、この台地が軍関係の施設として利用されるようになりました。特に座間の東原は海軍の大工場(高座海軍工廠:こうざかいぐんこうしょう)がつくられました。これに関してはまたいずれここで紹介します。 |
畑地灌漑事業と桜並木の誕生 |
昭和二十年(1945年)、太平洋戦争が終わって数年間は日本中で食べるものがない、苦しい時代でした。「戦後の食糧難」といいます。(現在のようにコンビニエンスストアで気軽に何でも買える時代では、まめこぞうのように若い人には想像がつかないでしょうね。)そこで少しでも農地を広げて食糧を増産しようと、国をあげて相模原、大和、座間、海老名、綾瀬、藤沢などの台地に灌漑(田畑に水をやること)用の水路をつくることになりました。これを「相模原開発畑地灌漑事業」、略して「畑灌」(はたかん)といいました。昭和三十年頃、多くの人々の期待を担って水路建設は成し遂げられました。 座間の東原では戦後取り壊されたばかりの高座海軍工廠の跡地の真ん中を水路が通りました。ここは工廠の中で作られた飛行機の試験飛行用滑走路でした。初めて水が流れてきたときは町中が大喜びだったそうです。そこで翌年、工廠の跡地で盛大な祭りが行われました。このとき芹沢の人達が「畑灌音頭」という曲を作詞し、みんなで歌って踊りました。「東京音頭」の替え歌です。みなさん歌えますか? |
一 ハァー 踊り踊るなーら ちょいと畑灌音頭 ヨイヨイ 夢に描いた 夢に描いたときがきた ※ヤーッとなー それヨイヨイヨイ ヤーッとなー それヨイヨイヨイ 二 ハァー 水だ水だよ ちょいと東の原に ヨイヨイかけた畑にゃ かけた畑にゃ黄金咲く ※くりかえし 三 ハァー 秋だ秋だよ ちょいと稔りの秋だ ヨイヨイゆれる穂波に ゆれる穂波に笑がわく ※くりかえし |
水路が完全にできあがった昭和三十一年(1956年)、これを記念して有志の方が水路沿いに桜を植えました。これが現在の桜並木です。初めは小さな苗でしたがものすごい数です。植えるだけでもかなりのご苦労があったでしょう。しかも育たずに枯れてしまう苗もあり、また植え替えることもあったそうです。 |
畑灌水路、昭和48年、相模原市。すでに水は流れていない。 |
畑灌水路のその後 |
せっかく莫大な費用をかけて作った灌漑用水路でしたが、利用代が高い割に計画していたよりうまく農業ができず、昭和三十年代から台地の上に工場や住宅が建ちはじめ、畑が減っていきました。そして昭和四十五年(1970年、このころ日本は急激すぎる発展をしていました。)ついに水路の水は止められ、その仕事を完全に終えました。そのあと水路の深まりに子供が落ちるという事件があったため、水路はすべてコンクリートのふたでおおわれ、そのまま歩道として第二の歴史がスタートしました。 |
暗きょ化される直前の水路、相模原市。 深さは1 mほど。 |
桜花の碑と畑かんの碑 |
国道246号線近くの桜並木の植え込みに2つの石碑が建っています。一つは小さいので見逃してしまうかもしれません。「畑かん」とだけ彫られたものです。畑灌水路がとても大切だったことの証拠です。もう一つは大きな石碑で「桜花」(おうか)という題字の下に、灌漑用水路と桜並木の歴史を簡単に記しています。碑文は「私達は深い感慨をこめて永くこれを見守るであろう。」と結ばれていますが、桜並木誕生からはや半世紀、そのいきさつを知る人も少なくなってしまいました。 |
まめこぞう