第18話 座間遊園地
2003年09月01日 00:00
小田急座間遊園地 |
座間駅の東側はすぐに丘陵がせまっていますが、これを越えた入谷4丁目や立野台2丁目はかなり宅地化され、市内でも有数の人口密集地になっています。昭和二年(1927年)の地図を見ると、ここには「小田急電鉄座間遊園地」と書かれています。小田急電鉄はここに向が丘遊園のような遊園地をつくる予定だったのです。 |
■遊園地の範囲はわかりやすい |
新旧2つの地図を比べると、遊園地の予定地が現在のどこだったのかはっきりわかりますね。 座間市のまくらことばが「坂と屋根の町」ですが、この一帯はまさに坂だらけ。どちらに行くにしても急な坂を越えなければなりません。小田急電鉄としてもこのような土地を宅地にして乗降客を増やそうとは考えなかったはずです。(中央林間などは林間都市計画としてかなりはやくから住宅地にする計画でしたが、あちらは土地がほとんど平らです。) ここは座間遊園地予定地とされた当時、現在の谷戸山のような場所だったはずです。それはたしかに遊園地にしたほうがおもしろそうでしょう? |
■まめこぞうの遊園地計画 |
もし遊園地になっていたら‥駅前の交番あたりが正門で、急坂を登り切った老人憩いの家あたりに大観覧車。これは座間市すべてだけでなく、天気がよければ富士山や伊豆大島も展望できます。スーパー三和のあたりにレストハウス、ここなら駅の方も座間ハイツの方の谷も一望できます。そして座間ハイツの低いところに池をつくり、丸太のジェットコースターがザバーン‥なんて想像すると楽しいですね。ちなみに立野台小学校は大駐車場かな・・ |
■不況と戦争でぽしゃる |
先ほどの地図が書かれた昭和2年、せっかく関東大震災のダメージから復興した日本は金融恐慌に突入、さらにこれから数年の間にアメリカから始まった世界恐慌、昭和恐慌と続いて国全体が、いや、世界中がぼろぼろになっていきます。そんな状態と無関係ではなく日本も他国も戦争へと突入していきます。 そしていよいよ廬溝橋事件を発端として日中戦争が始まった昭和12年、小田急電鉄は駅名を「座間遊園」に改称しましたが実際には遊園は作られず、ドイツがポーランドに侵攻して第2次世界大戦が勃発した昭和14年、ついに座間遊園計画はあきらめられたのでした。 |
■その後の変遷 |
嘘も本当もいろいろな計画があり、そのために莫大な損をした方もいらっしゃったとか・・詳しくはふれませんが、最後には大手宅地開発会社の手により、現在の町が作られました。ただ、なぜか道路は定規で引いたように(たぶん地図の上で本当にそうしたのでしょうが)ほぼ正確に東西南北まっすぐで、しかも地形を全く無視して作られています。京都のように平らな土地なら何の問題もないことですが、ここは座間の中でももっとも起伏がはげしいところ。それでも強引にまっすぐつくられた道路は必然的にかなりの急勾配になります。特に入谷4丁目の東側は傾斜がきつすぎて自動車が通り抜けられる道が一つもありません。すべて階段になっています。この意図についてはまめこぞうはまだしりません。 |
■座間遊園のなごり? |
その階段ですが、昭和四十七年(1972年)まめこぞうが偶然ここを通ったとき撮った写真があります。2つの写真はまったく同じ場所です。まるで「○どもの国」みたいでしょ?実際、当時このあたりには森の中に家が点在しているだけで、現在の立野台2丁目もただ森が続く小高い山でした。ちなみにこの山、江戸時代の鷹狩りに関係あったのですがそれはまたいずれ・・ |
■座間と言えば観光芋掘り |
まめこぞうはこの地元の育ちではありません。都内から小田急電車に乗って「観光芋掘り」に来たのです。(けっこうとしだとばれますね・・)芋掘り会場は立野台小学校(当時はなかった)東側、現在の立野台1丁目あたりでした。 秋になると新宿駅なんかで大々的に「いも掘り」「座間往復」なんて垂れ幕がかかげられてお客さんがぞろぞろ来たんですよね。ちなみにまめこぞうの友達で座間出身者と綾瀬出身者がお互いをばかにし合っていたとき、 「綾瀬の子供は豚っこじゃないか!」「座間だっていもっこだ!」 横浜のはまっことは全くの別世界です・・ 今でも綾瀬の豚は有名ですが、座間ではもうサツマイモをほとんど見なくなりましたね。まだほんの少しだけ栽培されていますが「観光芋掘り」はいつなくなったのでしょう? |
■座間遊園の碑 |
座間駅から三和の方にのぼる坂の途中に「座間遊園の碑」がありました。そこには遊園に関わる歴史が書かれていたそうですが、行方不明になっています。どこにあるのでしょう? |
■座間駅名のうつりかわり |
時代とともに駅の名も変わりますが昭和2年7月、最初にこの駅ができたときの名は「新座間」でした。現在の相武台前が先にできていてそちらの名が「座間」だったからです。地名的には逆ですけれどね。 昭和12年7月、「座間遊園」に改称しましたが、昭和14年、座間遊園地計画をあきらめ、昭和16年(1941年、太平洋戦争が始まった年)10月、現相武台前が「士官学校前」に改称されたことによりこちらが「座間」になりました。このへんの改称にも戦争が大きく関係しているわけです。 それにしてもまぎらわしい駅名は困りますね。当時座間駅と新座間駅が隣り合っていて間違える人は少なくなかったのではないでしょうか。今だって新百合ヶ丘とか新松田なんてまぎらわしいです。厚木なんて海老名市にあるのに断固改称しませんね。厚木駅の方が先にできたのだからしかたなかったとはいえ、地理に詳しくない人にとっては本当に困ります。 そういえば新原町田なんて懐かしい名前・・知ってる人も少なくなってきましたね。 |
まめこぞう