第20話 鷹狩り
2003年11月01日 00:00
鷹狩り |
江戸時代、武士が鷹を使って狩りをする「鷹狩り」(たかがり)がよく行われました。座間市には鷹狩りが行われた場所であることを示す地名がいくつか残っています。 鷹狩りをする場所を「鷹場」(たかば)「鷹野」(たかの)などといいますが、相模の国では鷹場はおもに座間を中心として現在の相模原市や大和市にまでおよんでいました。 |
鷹狩りとは |
江戸時代、鷹を使ってスズメやヒバリを捕った狩りの方法です。 鷹を使った狩りといっても、そのまわりにはとても多くの人が動き回り、獲物を追いました。これは狩りの形を借りた軍事訓練(戦争の練習)だったのです。 人が林の中から獲物を追い出し、あらかじめ決められたポイントに追いつめます。そのポイントには腕に鷹を乗せた主役が待っています。その主役の命令で腕から飛び立った鷹が獲物をつかみ、着地したところで獲物を回収するというものです。簡単そうですが鷹を鍛えることも大変ですし狩りそのものが大がかりでさまざまな規則や作法(さほう)がありました。 |
幕府は大名達に鷹狩りを勧めましたが、大名が自分の領地で行うことはかたく禁止していました。大名は幕府の土地(御領:ごりょうという)でお金を払ってやらせてもらわなければならなかったのです。しかもそれにかかるすべてのお金(使用料、旅費、宿泊費、食費など)はすべて大名自身が負担しなければなりませんでした。また、狩りに関してルールに違反したり大きな失敗をしたら重い罰(お家断絶:おいえだんぜつなど)を受けました。大名側にしてみればとても迷惑なことだったはずです。はやい話、幕府は「いざ出陣という時のために訓練しておけよ」と言いながら、大名のお金をつかわせて弱め、しかもちょっとしたことでケチをつけて取りつぶしたりもしよう・・という政策だったのですかね。 |
座間の鷹狩り |
座間市内には鷹狩りに関係あると思われる地名が何か所かあります。 (1)鷹番堂(たかばんどう) 芹沢公園内 (2)鷹番塚(たかばんづか) 入谷4丁目 座間ハイツ (3)鷹の峰(たかのみね) 立野台2丁目 (4)鷹見塚(たかみづか) キャンプ座間内 (5)鷹匠橋(たかじょうばし) 座間2丁目 鳩川プールそば、鳩川にかかる橋 栗原で鷹狩りが行われるときは、武士の代表と地元の代表が崇福寺か専福寺のどちらかで事前に話し合いをしました。寺は宗教的なことだけでなく、公民館、軍事司令部、学校、避難所、さまざまなものにつかわれるのですね。 狩りに関わる人は数人ずつ分かれて近くの農家に泊まりました。しかしちょうど農作業が忙しいときに限ってくるので多少のお金をもらっても農家としては迷惑だったようです。 |
鷹番堂 |
芹沢公園の中、地下工廠の解説パネルと谷をはさんで反対側の斜面を「たかばんどう」といいます。おそらく鷹番堂と書くのでしょうが、鷹狩りに関係のある場所だったと想像されます。 鷹場の管理をする番人がいるところを「鷹番」といいました。(東京の目黒区にも鷹番という地名がありますが)鷹番堂は番人がいたお堂のことと思われます。いわば「国営狩猟場管理事務所」ですね。 さて鷹番堂と呼ばれている斜面の中ほどに平らになっているところがあります。おそらくここに建物があったのだろうと思うのですが、このような土地が江戸時代のまま残されているなんて、すごいことです。 |
鷹番塚 |
座間ハイツ北西の角あたりは鷹番塚と呼ばれていました。 ここには番人が見やすいように土を盛り上げた塚があったといわれています。 ここは標高が90m以上あり、このあたりでは一番高い場所です。ここからなら現在の座間ハイツから羽根沢にかけての谷と反対側の谷戸山の谷、さらに東側の平坦地が見渡せたと思われます。 またここは「巡礼街道」と呼ばれる道が通っているため、交通にも恵まれていました。 |
鷹番塚 白い建物のあたりと思われます 車が走っているのが 昔の巡礼街道です |
鷹の峰 |
立野台2丁目の、南北に続く高台を鷹の峰といいました。このあたりから鷹をはなして狩りをしたのでしょうか。 また、この山を「立の山」(たちのやま)ともいいました。鷹匠(たかじょう:鷹のめんどうを見る人)が立ったのか、鷹狩りの指揮をとる人が立ったのか定かではありませんがやはり鷹狩りに関係があるのでしょう。 この「たちのやま」という地名がやがて「たつのだい」に変化したのです。 |
ところで鷹狩りはどこで行われたのでしょう。 鷹の峰そのものでしょうか、西側の座間ハイツの谷でしょうか、それとも東側の平坦地でしょうか?江戸時代に描かれた鷹狩りの絵巻を見ると、(座間のものではありませんが)谷底を駆け回る武士達と、丘の上に陣取って見下ろす偉そうな人がいます。鷹の峰にしても鷹番堂にしても、ぴったりの地形です。 |
芹沢公園の谷 ここを多くの人が 鳥を追って走り回ったのでしょうか |
余談:立野台と呼べる場所 |
立野台には1~3丁目がありますが、地形と鷹狩りの歴史から見ると2丁目こそが本当の立野台です。立野台1丁目は平坦地で、つい数年前に住居表示されるまでの地名は「栗原」でした。たとえ立野台小学校があってもここはやはり栗原です。 立野台3丁目は地形・地質的には座間丘陵の一部で、立野台2丁目の続きであることは確かです。立野台3丁目と西栗原は地形からは区別しにくいですが、地質はかなり違います。 これらはもともと「中っ原」と呼ばれる原っぱでした。「なかっぱら」はやがて「なかはら」と呼ばれるようになりましたが中原 という地名を残すのは小学校だけになってしまったようですね。 |
まめこぞう