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第9話 三峯坂(みつみねざか)と三峯神社

2002年09月05日 00:00

第9話 三峰坂(みつみねざか)と三峰神社

三峰坂(みつみねざか)と三峰神社

まめこぞう超おすすめの道

谷戸山公園南隣の森の中に、旧道(きゅうどう:古い道)が昔のままの姿で残っています。
場所は星谷寺のそばの大きな踏切を東にわたって線路沿いに数十m北に行ったところです。
 坂の名前は三峰坂といいますが、ここまで手をつけずに残されている坂は市内でも他にありません。まずは歩いてみてください。土がむきだしになった急な坂道は、そこだけが江戸時代であるかのような錯覚をもたらします。足元を見れば赤土、上を見上げれば森の木立に覆われて緑のトンネルのよう・・

その色のコントラストも不思議な感覚ですが、まめこぞうはその木々が描く同心円を見ると昔々のTV番組、タイムトンネルを思い出してしまうのでした。この道を登り切ると別世界につながっているのではないか・・いや、坂の上から三度笠(さんどがさ)をかぶった旅人(たびにん)さんがスタスタと下りてくるのではないかとも思えます。
 夢想ではなく現実的に考えてみると昔の人の苦労がちょっぴり想像できそうです。
歩くだけでもこんなに大変なのに荷車を引いて通るときはどうだったでしょう。特に雨の日はどうしていたのでしょうね。ぬかるんですべってどうしようもなかったのではないでしょうか。こういう坂道にはこどもがぶらぶらしていて荷車が来ると押すのを手伝ってお駄賃をもらったという話もあります。当時としてはいいアルバイトですね。ちなみにこの坂道の道幅はちょうど荷車とそれを横で押す人が通れる幅です。

なぜ昔のまま残ったか

 このような昔のままの雰囲気を残す坂道はもはや座間市内にはここしかないと言っていいでしょう。海老名市にもいくつかあるのですが、開発が進んでアスファルト舗装の車道に変わってしまったり森が宅地になってしまったりでなくなりつつあります。幸い三峯坂はアスファルト道路がこの坂の南側を大きく迂回して造られたために時間ごと取り残されました。
またすぐ隣に谷戸山公園ができたおかげでおそらくこれ以上の開発はされないと思われます。ぜひこのまま永く保存してもらいたいものです。

参道入口
踏切前の崖に参道の入り口があります。
写真の中央、カーブミラーの所です。

もうひとつの坂道

 三峰坂と平行して踏切の真ん前に細い坂道があります。自動車で通過してもそこに道があることに気づかないほどです。こちらの道は人が一人やっと通れるだけの幅で、荷車などは無理です。これは人や荷車が行き来するための道ではなく、三峰神社の参道なのです。

参道
一人しか歩けない幅です。

三峰神社

 この細い坂道を上りきった丘の頂上に小さなお堂があります。
これは三峰神社といい、火災や泥棒から守ってくれる神様をまつっています。三峰とは埼玉県秩父の奥にある妙法、白岩、雲取の3つの山のことですが、山そのものを神としてあがめる修験者(しゅげんじゃ)が建てたのでしょう。

三峯神社
丘の頂上にひっそりと建っています。

寄せ宮(よせみや)

 三峰神社は古くからここにあって村を見守っていたのでしょうが、明治になって世の中はおかしくなりました。明治の初め、すべての神社は国によって管理され、1つの村には1つの神社しか認められないことになってしまったのです。そのため明治四十三年、三峰の丘からはるか下の鈴鹿神社に統合されてしまいました。
古代からその土地その土地に理由があって建てられ、信仰を集めてきた神社のほとんどがとりこわされ、村ごとにまとめられてしまいました。このようにいくつかの神社をまとめて一つにすることを寄せ宮といいました。
 神社は地形や地質、景観などの自然をもとに定められたと考えられる場所や歴史的な事件のあった場所などに建てられることが多く、そこに建っていること自体が昔の人々の考えや願いをよく表しているのです。しかし場所を変えられてしまった神社は本来の意味を失うと言っても過言ではないでしょう。寄せ宮とは廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)に次いで日本の心を失わせた明治の愚策だとまめこぞうは悲しみます。

星の谷大火(ほしのやたいか)

 昭和三年三月二十一日、三峰の丘の下、星の谷の集落で火災が発生しました。世に言う星の谷大火です。日本史に残る「明暦(めいれき)の大火」などとは比べものにならないものかもしれませんが、民家だけでなく星の谷観音の仁王門も焼き、さらにとんで三峯の丘までも焼いたその火に人々は思いました・・「三峰様を動かしたからだ」三峰様は「火ぶせの神」(ひぶせのかみ)、つまり火災除けの神(かさいよけのかみ)なのです。
翌年、許可を得て三峰神社は元の場所に戻されました。そのときの建物は立派な彫り物で飾られていたそうです。それは社が戻ってきた村人の喜びを表しているのでしょうか、それとも動かしてごめんなさいという気持ちを表しているのでしょうか・・・

まめこぞうは数年前、三峰神社の前で
大きなフクロウにでくわしました。
コノハズクというやつだろうと思われるのですが
至近距離でにらまれるとかなりびびります。
肉食動物ですし・・・

次回は三峰坂周辺の石像物に目を向けてみましょう。

 なお、みつみねの名は「三峰」と書きましたが、本来は「三峯」の字が正しいようです。

第8話 閻魔堂(えんまどう)

2002年07月24日 00:00

第8話 閻魔堂(えんまどう)

閻魔堂(えんまどう)

鈴鹿神社と龍源院(りゅうげんいん)にはさまれた「鈴鹿長宿(すずかながじゅく)自治会館」の隣にある小さなお堂です。中をのぞくとたくさんの木像がありますが、その中心にあるひときわ大きなものが、誰もが知っているあの閻魔様(えんまさま)の像です。他の像のうち9体は帽子や服などが閻魔と同じ中国風ですね。これら十体は十王(じゅうおう)と呼ばれる地獄(じごく)の裁判官達なのです。

十王

十王は死者が生前(せいぜん:生きていた間)にどんな悪いことをしたのか調べ、その罪の重さによってどんな罰を与えるかを決める裁判をします。この裁判は閻魔一人でおこなっていると思われがちですが、そうではありません。
人が死んでから7日目に最初の裁判(今で言うなら初公判)がおこなわれ、それを含めて7日ごとに7回審議は続きます。7回目は死後49日目に当たります。その次からは100日目、1年目と続き、3年目で裁判は終わります。

合計10回の裁判は十王の一人一人が別々に担当します。閻魔は十王の中の代表ですが、5回目の裁判を担当します。
そういえば日本では人が死ぬと7日目に 初七日(しょなのか)49日目に 四十九日(しじゅうくにち)100日目に 百か日(ひゃっかにち)1年目に 一回忌(いっかいき、または一周忌いっしゅうき)3年目に 三回忌(さんかいき)という法要(ほうよう:死者のために拝んだりすること)をおこなうことが多いですね。

これは裁判の日に合わせて多くの人が祈ることによって、地獄で裁かれている死者を応援するという意味があります。
十王が罪の重さを量っているところにお経とともにたくさんの人々から「あの人はいい人だった」「極楽に往生できますように」などと祈り声が聞こえてきたら少しはおおめに見てくれるかな・・ということなんでしょう。減刑嘆願書っていうところですね。

それでは自分が生きている間に十王に祈れば、死んだあとの自分の裁判に少しでも有利になるのでは‥という考えからこのような十王像が各地で作られ、信仰されてきました。この世の裁判で公判以前に裁判官と被告が懇意になっていて、そのために罪が軽くなるって言うことは絶対ないですが・・

わかっていてもつい・・

まめこぞうの身内は忙しいことを理由に初七日と四十九日の法要をいっしょにしてしまいました。今どきの法事(ほうじ)はそんなの常識になっています。しかし本来の意味どおりに今でも7日ごとにお寺さんに頼んでお経をあげてもらうおうちもありますよね。二週目、三週目などを「ふたなぬか」「みなぬか」などとも言います。なのかがなまってなぬかになるんですね。赤ちゃんが生まれて七日目、元気に育ってほしいと祝う行事なのに「初七日」なんて言っちゃって大失敗した方もいるのでは?あれは「お七夜」(おしちや)ですよね。
まためでたいことがあって一年目に「一周年」を祝おうとして「一周忌」って言ってしまった人は多いでしょう?特に結婚一年目を一周忌なんて言ったらしゃれになりませんよね・・(半分当たっているという人もいますが)逆に今年の春、一年前にあった不幸な事故のお詫びをしようとした関係者が記者会見で「一周年」と言って大ひんしゅくをかったこともありました。一周年っていうのはめでたいことにつかう言葉なんですね。

知ったかぶりコーナー 王は王様ではない

王というとアラビアンナイトの王様、ヨーロッパの昔話に出てくる王様、実在したフランスやイギリスの国王を連想します。(野球の王さんって言う人もいるかな?)しかし中国で言う王はこれらとは違い、一番上の人は王ではないのです。実際に2千年の中国の歴史を見れば、秦の始皇帝から始まって、清朝最後の宣統帝(せんとうてい)愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)まで、その国のトップにあった人はみな皇帝または帝(てい)と呼ばれます。これに対して王とは帝より下の位であり、地方豪族のような感じでした。日本史で習った金印の文字に「漢委奴国王」(かんのわのなのこくおう)とありますが、これは中国(後漢)皇帝の下で奴国(なこく)を治めることを許すぞっていう偉そうなしるしです。日本では奈良時代の長屋王(ながやおう)のように親王(しんのう)、皇子(みこ)より下の皇族(こうぞく)男子を王と呼んでいました。
また、仏教に関係ある王はほとんど皆もともと仏の世界の外にあった神などが仏教に取り込まれていったものと言っていいでしょう。たとえば奈良の興福寺(こうふくじ)で有名な阿修羅王(あしゅらおう)、そして今回の主役、閻魔王などです。これらもはっきりと仏より下のランクであるとされています。

奪衣婆(だつえば、またはだついば)

地獄の入口といえば三途の川(さんずのかわ)・・・
この川の所でやって来る死者を待ち、その着物を脱がせてしまうおばあさんが奪衣婆です。(脱衣婆とも書きます。)十王とは身なりがまったく違います。
死者はここで裸かそれに近い姿にされ、十王の判決に従って血の池とか針の山へ向かうのです。
着物を脱がすと言っても親切に手伝ってくれるのではありません。奪衣=衣を奪うのですから。
このおばあさん、一般にはやせてあばら骨がごつごつ出ている姿をしていますが、座間のものはちょっとぽっちゃりしています。顔や体全体はふくよかなんだけどあばらはお約束どおりごつごつです。

さらにもう一つのお約束・・はだけた胸から細長くしぼんだ乳房がたれて見えています。おばあさんになるとはじらいもないのですね・・
ああ、今はかわいい女の子達も数十年後にはこうなっちゃうのかしら・・あ、たれてくるのもしぼむのもいいんですよ、それを平気で人前に出しちゃうっていうのがね・・まめこぞうは十王から離れてまったく別の無常観におもいをめぐらせるのでした。色即是空・・


そういえばまめこぞうの祖母も暑い夏の夜、窓を開けたまま上半身裸になってうちわであおいでいましたっけ・・でも母は絶対そんなことしません。むしろ昔の方が当たり前だったのかな。

地蔵菩薩(じぞうぼさつ)

奪衣婆の隣に黒くて小さな像があります。これは見ればすぐわかるお地蔵様です。昔はきっと全身金色に輝いていらしたのでしょう、胸のあたりにその色が残っています。地蔵様は地獄で苦しむ人々を救う最後の希望なのです。詳しくはまたいずれ。ところでこの地蔵様と奪衣婆は何年か前に見たときと場所が入れ替わっています。なぜ?

この小さなお堂の中には十王全員と奪衣婆、そして地蔵と、関係者フルメンバーがそろっています。しかもいつでも自由に直接拝むことができます。それなのに傷みが少なくしっかりした姿のまま何百年もの間現在の場所から動いていません。ここの閻魔様は像の中に「元文五年」(1740年)と書かれているので、その年に作られたと考えられています。地方の村の木像であるにもかかわらず、これだけきれいに彩色(さいしき)が残っているのも珍しいかもしれません。これは周囲の方々が本当に大切に守ってこられたからでしょう。まだまだ今後何百年もにらみをきかせていてほしいと願います。

1977年の写真です。並び方がまた違いますね。どうやらお堂の中ではたまに席替えをしているようです。
よくみると・・あ!席替えだけじゃない!閻魔様の必需品、「笏」(しゃく)が昔は縦だったのに今は横になっている!しゃくは縦にして持つのが常識。閻魔様に何があったのでしょう?
また、お地蔵様の光背(こうはい:光り輝く様子を表した輪のような部分)もなくなってしまったんですね。うーん、諸行無常の響きあり・・・

第7話 谷戸山(やとやま)

2002年06月24日 00:00

第7話 谷戸山(やとやま)

谷戸山(やとやま)

6月21日、夜の谷戸山公園に蛍を見に行きました。湿生生態園の両脇に飛び交う蛍がけっこう強い光を放つのに感動しました。
さて、今回はその谷戸山公園に伝わるたいへん古いお話を紹介しましょう。

谷戸山の伝説

「皇国地誌残稿」(こうこくちしざんこう)によれば、612年(飛鳥時代、推古〈すいこ〉天皇の御代、聖徳太子がいたころ)、このあたりが地響きをたてて揺れ動いたので不動明王(ふどうみょうおう)をまつって祈ったところ、ゆれがおさまりました。

その隣の山に堂を建て、僧が毎日お経を読むようになると、蛇穴が谷戸に住む大蛇がこの僧を食おうとしてやってきました。しかしお経の力で大蛇は僧に近づくことができませんでした。やがて大蛇はお経を聞くうちにその御利益(ごりやく)で成仏(じょうぶつ)できました。

本堂山
この山の上に星谷寺があったといいます。
手前の田が大坊谷戸で、今でも水に景色が映っています。

その後、奈良時代になって有名な僧の行基(ぎょうき)がここを訪れ、観音様の像を刻んでくださったのでこれを本尊とし、やがてこの寺が星谷寺(しょうこくじ)になったのでした。

注:今回の原稿を書くにあたって皇国地誌残稿を探したのですが読むことができませんでした。よって「座間むかしむかし」にたよりました。

伝説の場所

伝説に出てくる場所は、すべて現在の谷戸山公園内にあります。
まずひまわり公園と呼ばれるテニスコートがある部分の奥の丘が明王(みょうおう)、または明王堂と呼ばれています。キャンプ座間の水源地になっていますが、ここが地響きをたてて揺れた場所でしょう。丘の名前は忘れられてもその北側の住宅地の住所は「明王」として残っています。

水鳥の池
人工的に作られた池ですがこのあたりが蛇穴が谷戸です。

「蛇穴が谷戸」とは「水鳥の池」があるあたりです。僧が住んだお堂があったのは里山体験館から見て谷の向かい側で、「本堂山」(ほんどうやま)と呼ばれていました。今はここを「伝説の丘」と呼んでいます。里山体験館の前に広がる田んぼを「大坊谷戸」(だいぼうやと)といいますが、大坊とは寺の僧が住んでいた場所のことです。昔はこの田が池で、水面に夜空の星が映ったことから星の谷(ほしのや)とも呼ばれました。星谷寺の名はここからつきました。
また、星谷寺の別名を星の谷観音というのもこのためです。なお、明王の丘にあった明王堂は、座間神社の境内に移されています。

明王社
今は座間神社に祀られています。

地鳴りとゆれの原因は

地鳴りとゆれといえば地震そのものです。地震はおもに活断層(大地が割れてずれているところ)で起こるのですが、ここに活断層があるというわけでもなさそうです。ただ、市役所やハーモニーホールを建てる時におこなわれた地下構造の調査記録を見ると、市役所あたりに比べてハーモニーホール側の基盤が20m以上低いのです。
そこにあった「入の谷戸」(いりのやと)という谷を埋めてホールが建設されたのですが、それにしても明王という丘を中心に東側は東に流れる入の谷戸、南側は西に流れる大坊谷戸と、湧いた水が流れる方向が違うのも不思議です。

明王
この奥の山が鳴動した場所です。

そもそも明王の丘は座間市でもっとも標高が高いところなのですが、そこから東にも南にも西にも水が湧いていることじたいが不思議です。昭和の中頃、長野県の長野市に近い松代(まつしろ)で鳴動がながく続き、松代群発地震と呼ばれましたが、これは地下から水が噴き出して静まりました。谷戸山の鳴動も地下水と関係あったのではないかとまめこぞうは勝手に思ってその秘密の証拠を探しています。

大蛇は人?

大蛇と言えばこのまめこぞうシリ-ズの第1回にも登場しましたね。鈴鹿神社の伝説で地元の神と鈴鹿の神、さらには相模原のあるかの神が三つどもえになって戦う話です。鈴鹿伝説の大蛇は当時の人たちのことと解釈すればもっとも自然に理解できるのですが、谷戸山伝説の大蛇も同じなのではないでしょうか。

蛇ではなくて地元の仏教を信じていなかった人々を象徴した表現なのではないか、とまめこぞうは考えています。この伝説は仏教に反対していた人々がやがて寺と和解して仏教を信じるようになったことを表しているのではないでしょうか?そのころ国の中心でも仏教を取り入れるかどうかを一つの争点として、蘇我氏と物部氏が大きな争いをしていましたからね。

ちなみに鈴鹿からやってきて座間に住み着いた人々は、物部氏の関係者ではないかとまめこぞうは考えています。物部氏の守ろうとした宗教と蛇は密接な関係があるんですよね・・・

鳴動というのもまったく見方を変えれば地面が動いたのではなく、地元の人々が集結して騒いだことを表している可能性もあります。それとも本当にでかい蛇がいたのでしょうか‥今でもいるのかな‥夜になるとあの池の上でザバザバと泳いでいるかも‥

しかし・・・

ここまで書いておきながらおかしな話ですが・・

こんなに地名がばっちり残っているというのに、実は本堂山からはそこに寺があったという証拠が何も見つかっていません。飛鳥時代から始まって江戸時代中期まであったはずなのに何も発見できないのは、埋もれていてまだ見つかっていないだけなのだと信じているのですが・・

第6話 いっぺいくぼといっぺいどう

2002年05月28日 00:00

第6話 いっぺいくぼといっぺいどう

いっぺいくぼといっぺいどう

南栗原4丁目6番地には「いっぺい窪(くぼ)」と呼ばれる小さな谷があり、豊かな泉がわき出しています。この窪とそこを通り抜ける「巡礼坂(じゅんれいざか)」に関してはまたいずれ書くとして、今回はその地名について考えてみたいと思います。

いっぺい窪 がけから豊かな泉が湧いている

いっぺいとは

いっぺいくぼだけでなく、巡礼坂を上りきった右側(南側)の畑も古くから「いっぺいどう」と呼ばれています。2つの隣り合う「いっぺい」とは何を意味するのでしょうか?
公式の書物にはすべて語源不明となっています。人名ではないかとする本もありますが、いっぺいどうの南隣、NTTの社宅あたりが「にっぺいどう」と呼ばれていたと聞くと謎は深まり、金田一少年をよびたくなります。しかし土地の人はここを「いっぺんどう」とも呼び、一遍上人(いっぺんしょうにん)と何らかの関係があったととも言うのです。

一遍上人と時宗

中学校の歴史の時間でも必ず習う、鎌倉仏教の1つ、時宗(じしゅう)の開祖(かいそ)、あの一遍上人です。ここでちょっと長くなりますが日本史のおさらいを・・

一遍の百年ほど前、鎌倉幕府が開かれる直前に法然(ほうねん)が浄土宗(じょうどしゅう)を、親鸞(しんらん)が浄土真宗(じょうどしんしゅう)を開き「阿弥陀仏を信じ、念仏(ねんぶつ:南無阿弥陀仏のこと)を唱えれば、死後、極楽浄土(ごくらくじょうど)に往生(おうじょう)できる」ととき、センセーションを巻き起こしました。それまでの仏教は特別に修行をした人や金持ちのものだったからです。

さらに鎌倉時代のまっただ中になって一遍上人はこれを上回ることをおっしゃいました。「仏を信じていようがいまいが、善人だろうが悪人だろうが、念仏を唱えさえすればすべての人が救われる」これが時宗です。


踊念仏(おどりねんぶつ)

一遍上人はこの教えを庶民に広めるのに「踊念仏」という方法をとりました。鉦(かね)や鼓(つづみ)をならしながら念仏を唱え、踊り続けるのです。(チンドン屋さんがたたく楽器を思い出していただけるとわかりますか?)そしてヒステリー状態になることを「念仏三昧(ざんまい)の境(きょう)にいる」といいます。

「一遍上人絵伝(えでん)」という絵巻物には京都の町なかに踊屋(おどりや)という全方向から見られるステージを建て、数十人の弟子とともに踊り続ける上人の姿とそのまわりで見物する貴族や庶民の姿が描かれています。ちなみにこのときの踊念仏は48日間続けられたとあります・・

そして再びいっぺいどう

ここまで読めばいっぺいどうは一遍上人の踊屋ではないか・・と思えてきますね。しかもいっぺいどうの北側に残る森はなんと「念仏山(ねんぶつやま)」というのです。

いっぺいどうと念仏山
手前の畑がいっぺいどう。自動車のあたりに巡礼街道が横切り、その奥の森が念仏山

話はとびますが、栃木県にある「下古館(しもふるだて)」遺跡は鎌倉時代の市場(当時は市庭と書いた)だったところですが、その周囲は荒れ地で、そこを通る街道をはさんで両側に市(いち)が広がっていました。そしてその市の中心には阿弥陀堂と踊屋があったことがわかっています。

この話を見つけたとき、まめこぞうはふるえました。まさにいっぺいどうと同じではありませんか!いっぺいどう周辺を見ると、平らな荒れ地であるさがみ野の台地を通り抜ける「巡礼街道」(巡礼坂の道)をはさんで北に阿弥陀堂だったかもしれない念仏山、南に踊屋だったかもしれないいっぺいどうがあるのですから。(わざわざ荒れ地に市を作ったのは、そこが誰の土地でもなく、神仏の領域として世俗の権力が及ばなかったからと考えられています。)


一遍は一人ではない

一遍上人は1289年になくなりましたが、その教えを継いだ弟子の中で藤沢の遊行寺(ゆぎょうじ)(本当の名は清浄光寺:しょうじょうこうじ)と相模原の無量光寺(むりょうこうじ)の住職は代々「一遍上人 他阿(たあ)」を名乗りました。ということは、今までに数え切れないほどの一遍上人が存在していたということです。
その中でも座間周辺では特に無量光寺の五十二代他阿が大活躍しました。この方は江戸時代の中頃に住職を引退し、文政から天保(てんぽう)年間にかけて少なくとも座間市内の四つの石塔に名を残しています。この石塔は「六字名号塔(ろくじみょうごうとう)」といわれますが、他阿が筆で書いた「南無阿弥陀仏」の六文字(これを六字名号という)を石に刻んだものです。

四つの石塔は専念寺、浄土寺、座間小学校北方、そして上栗原の嘉兵衛坂(かへいざか)下にありますが、それらには「一遍上人 五十二代 前他阿(さきのたあ)」と署名があります。前他阿とは引退したあとなので先代の他阿ということですね。この方の活躍が石塔になるくらいですからおそらくもっとさまざまな布教活動をおこなったはずです。いっぺいどうもその活動の名残なのかもしれません。

六字名号塔 上栗原のもの。
右に一遍上人、右下に五十二代、
左下に前他阿とある

しかし結論は

いっぺいどうは時宗と何らかの関係がある建物の跡ではないかと思えてしかたないのですがまったく何の証拠もありません。今後発掘でもされて鉦(かね)が出てきたり文字で証明できる物が見つかればびっくりですが・・

また、時宗関係だったとしても初代の一遍上人と関係があったとは限りません。五十二代の他阿とも限りません。市場だったのかなどとはさらにわかりません。
今回のお話はすべてまめこぞうのひとりごとと思ってください。

だいいち、にっぺいどうの話はどこにいっちゃったの?

第5話 三年坂(産寧坂)

2002年05月08日 00:00

第5話 三年坂(産寧坂)

三年坂(産寧坂)

鎌倉街道の面影が残る古い道です。ゆるやかな坂はしき石の階段になっています。ここは前回お話しした護王姫が息を引き取る直前に歩いたと言われるところです。小さい川を渡るところが伝説にもあった櫛橋(くしばし)です。

櫛橋から見た三年坂(産寧坂)

時を越えた景色

櫛橋に立って南側を見ると、森の中からのびる三年坂が見えます。右側に小さな祠と鳥居があり、薄暗い木々の中に鳥居の鮮やかな朱色がはえます。その横にある椿の木に花の咲く頃はさらに風情があります。じっと見ているとふと自分が鎌倉時代や室町時代に入り込んだような気がしてきます。まめこぞうはここに立つたびに、出産直後の護王姫が、出血も止まらず血の気がひいて意識を失いかけたまま、おともの者に抱きかかえられてここを下っていく姿が目に浮かんでしまうのです。そしてそのあまりにもドラマティックな光景にまたしてもうるうるしてしまうのでした。

ちなみにまめこぞうの頭の中の姫は若き日の京マチ子さん、そしてその後ろから追ってくる荒くれ者は…そう、三船敏郎さんです。若い人にはわからんかもしれませんな。でも若い人向けに座間出身のキャストを起用した場合は、姫に松嶋菜々子さん、最後までともをした女性に名取裕子さん、そんな話は伝説のどこにも出てきませんが姫の身代わりでおとりになった娘に小雪さん、姫を守って討ち死にする若武者にSMAPの中居くんがいいな…豪華でしょ? あ、こんなところに勝手に名前を載せたら問題でしょうか?しかも話がずれてますね、ごめんなさい…

姫の話にちなんでのちの人がこの坂の名を産寧坂(さんねいざか)とつけたといわれています。お産が軽くできるようにという祈りが込められたのでしょう。「さんねい」が言いにくいので、いつの間にか「さんねん」と発音されるようになり、やがて三年坂と書かれるようになったといいます。

三年坂の怪

ここでころぶと三年以内に死ぬ…と地元の人は言い伝えていますがこれは事実ではないでしょう。ただ坂道でころんでけがをしないようにと注意を呼びかけたのだろうと地元の方はおっしゃいます。でもこの話、どこかで聞いたことがありませんか?京都の清水寺(きよみずでら)にも産寧坂という名前の坂がありますよね。ここも一般には三年坂と呼ばれ、そこでころぶと3年以内に死ぬともいわれています。ひょっとしたら座間の三年坂は京都のものをまねたのかもしれませんね。

実はもう一つある三年坂

今回は星谷寺近くの三年坂を紹介しているのですが、座間市内にはもう1カ所、三年坂があります。場所は南栗原4丁目4番地…原耳鼻科の100mほど西側です。ここは巡礼坂のすぐ上で「念仏山」と呼ばれる森の横、やはり敷石のゆるやかな階段になっています。

念仏山とは昔寺があった場所といわれていますが、これはとても興味深い話なので次回に紹介します。とりあえず寺があったことは間違いないとすると、京都東山清水寺、座間入谷星谷寺、南栗原念仏山の3つの「三年坂」の共通点が浮かび上がります。

南栗原念仏山の三年坂

(1)ゆるやかな坂で、敷石の階段になっている。
(2)坂を上りきると寺がある。少なくとも清水寺と星谷寺は観音様を祀っている。
(3)そこでころぶと3年以内に死ぬと言われている。

この共通点は何なのか…単に有名な京都のものをまねたのか、ある種の寺院には三年坂がセットになっていたのか、当時一般的に流行したものだったのか…どなたかご存知だったら教えて下さい。こういうときインターネットは便利ですから。

ところで京都に修学旅行で行ったとき、バスガイドさんが言っていた説明です。「三年坂でころんだら3年以内に死ぬと言われていますが、2回ころんだら6年以内、3回ころんだら9年以内、10回なら30年以内に死ぬ、つまり30年長生きしちゃうんですね。」って… おいおい…(^_^;)

まめこぞう

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