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第4話 護王姫神社

2002年04月22日 00:00

第4話 護王姫神社

護王姫神社

座間警察署から相武台前へ向かう「入谷バイパス」沿いに大きなケヤキの木が茂っています。この木の下に建つ小さな神社には「護王姫」(ごおうひめ:午王姫と書かれる場合もある)と呼ばれる女性にまつわる悲しい物語が伝わっています。この伝説には時代と登場人物の違う数種類のものがあるようですが、ここではそのうちの3つを紹介しましょう。

現在の護王姫神社と大ケヤキ
このケヤキは市内最大、最古のもの


その1 円教寺(えんきょうじ)に伝わる話

護王姫は源義経の妻

平安時代から鎌倉時代にかわる直前、源義経(みなもとのよしつね)は平家を滅ぼしたものの兄である源頼朝(みなもとのよりとも)の怒りをかい、追われて東北平泉の藤原氏のもとへ逃げました。その後を追った義経の妻の一人、護王姫は妊娠していたにもかかわらず、夫を追って必死で東北に向かいました。姫も逃げなければ頼朝に殺されてしまうからです。しかし座間の星谷寺(しょうこくじ)の裏まで来て急に産気づき、大変な難産の末、結局亡くなりました。その墓に植えたケヤキが今の大ケヤキになりました。義経が殺されたのが1189年ですからその少し前なのでしょう。

のちにこの近くにいた僧の夢の中にこの姫が現れ、「私は難産の末死んでしまい、いまだに成仏できません。近いうちにここへ来る徳の高い僧に私の供養をしてもらって下さい。成仏できましたら女の人がお産で苦しむことのないように守ります。」と言ったといいます。徳の高い僧とは有名な日蓮上人(にちれんしょうにん)のことで、姫の霊が望むとおりにしてもらったのがこの神社だといいます。日蓮上人がここを訪れたのは文永八年(1271年)、元の大軍が九州に攻め込んだ「文永の役」の3年前です。


その2 永享記(えいきょうき)と海老名市に伝わる話

護王姫は一色伊予守六郎(いっしきいよのかみろくろう)の妻

室町時代の中頃、政治の中心である幕府は京都にありましたが、東国の重要拠点であった鎌倉を守っていた鎌倉管領(かんれい)の上杉憲実(うえすぎのりざね)と鎌倉公方(くぼう)の足利持氏(あしかがもちうじ)が対立し、これに幕府も巻き込んで戦争になりました。これを永享の乱(1440年)といいます。結局持氏が負けて自殺させられることで終息したかに見えましたが、その家臣だった一色伊予守六郎たちは今の茨城結城市に逃れて再起を図りました。

六郎の妻護王姫は海老名の今泉の館(いまいずみのやかた:国道246号線近く、今泉中学校東方の台地上)にいました。この館にも鎌倉を制圧した幕府軍が攻めてきたとき、話し合いで解決しようと館を出た者はだまし討ちに会い、幕府側にその場で切られてしまいました。残っていた者は少なく、姫だけでも夫のもとに逃がそうと館を脱出しました。しかし館からわずか600~700mの所、現在の海老名市立上星(じょうせい)小学校のグラウンドあたりで追いつかれてしまいました。姫だけは何としてもお守りしろと、男達は大軍の前に立ちはだかりましたが、ほとんど討ち死にしました。(守ろうとしたかいがないという意味でここを今も「かいな坂」といいます)妊娠中だった姫は逃げる途中に現在の相鉄線かしわ台駅のあたりで出産してしまいましたが、追っ手がすぐ目の前にいますので無理をして走り続けました。産まれた子は幕府側の兵につかまり、殺されて目久尻川に捨てられました。

姫は星谷寺の裏にある坂を下り切った所で小さな川に架かる橋を渡ろうとしましたが、川に櫛を落としてしまいました。この橋は今でも櫛橋と呼ばれています。そして橋の反対側の坂を上ったところで姫はついに息を引き取りました。その墓がこの神社であり、出産した場所を産川(さんがわ)と呼んでいます。かしわ台駅の近くで目久尻川にかかる橋を産川橋といいますから、このあたりだったのかもしれません。ときに永享十二年正月二十二日、春はまだ遠かったでしょう・・またその翌年の嘉吉(かきつ)元年、夫の六郎達も結城で全軍討ち死にし、世はさらに嘉吉の乱そして応仁の乱へと向かっていくのでした。

現在の産川橋
坂の上がかしわ台駅です。この坂の左側には「念仏坂」という小さな坂があります。ここが古戦場であるため、地元の人はこの坂を通るとき「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えたのだそうです。女性が使う武器が掘り出されたそうですが、もしかしたら護王姫のものだったのでしょうか。※ここは海老名市です。

その3 座間むかしむかしに記載された話

護王姫は畠山重忠(はたけやましげただ)の娘

その1のお話より10年後、鎌倉幕府最初の将軍源頼朝が死にました。このあと幕府の中では北条氏が大きな力を持ち、自分と対立する者を次々と倒していきました。畠山重忠は頼朝から厚く信頼されていたために北条氏とは仲が悪くなり、1205年に殺されました。

さてその重忠の娘、護王姫はまだ18才で自分の夫が戦に負けたあと北相模(神奈川県の北部)にいると聞いて鎌倉を脱出しましたが、海老名の産川で出産してしまいました。追っ手が近づいているためそこにとどまることもできず星谷寺の裏まで逃げましたがそこにある谷に橋がなく、仕方なく自分の持っていた櫛を橋にしようとしたのですが渡っている最中に櫛が折れ、谷に転落して死んでしまいました。のちにここへ来た日蓮上人が哀れに思って祀ったのがこの神社です。

どれが本当?

3つの伝説はよく似ていますね。これらに共通する護王姫像は
・夫は戦乱に敗れた側の一人である。
・若くて妊娠しており、鎌倉にいる敵に追いつめられて急いで北に逃げなければならなかった。
・逃避行中に出産してしまったが、そのために自分も命を落とした。
・その墓には神社が祀られている。

これだけの共通点があるのに時代や登場人物が異なる3つの伝説、まさかまったく別の3人の護王姫がいずれも偶然ここで亡くなったとは考えられません。おそらくどれかは事実と違うのでしょう…

永享記とは永享の乱にまつわる戦記物語(せんきものがたり)です。戦記物語とは戦乱をえがいた書物で、たとえば平家の盛衰をえがいた「平家物語」や室町幕府の誕生をえがいた「太平記」は有名ですね。戦記物語の内容は主役に肩入れされていて、100%史実と一致するかというとそうではないでしょうが、ある程度は信じられるはずです。(ただし永享記には今泉の館がだまし討ちされたことが数行載っているだけです。今回はこれに海老名市に伝わる伝説を加えてあります。)ではその2の永享記が正しいとすると、その1の円教寺の伝説を否定しかねません。なかなか難しいところです。郷土史関係の書物でも座間市内では円教寺の伝説を、海老名市では永享記を取り上げることが多いようです。

どれが正しいとは言えないのですが、護王姫の悲しい死の話があとからいろいろな話とごちゃごちゃになってしまったと考えるのが妥当でしょう。永享記は救いも何もなくてあまりに悲しすぎますね…円教寺のものは超豪華キャストでさまざまな因果を含みますので、また別の機会に紹介します。

それにしても愛する人を追って身重でありながら逃げなければならなかった護王…しかもすぐ後ろには強大な敵が迫ってきているのです。予想もしない場所で生まれてしまった我が子も失い、ついに夫に会えないまま野中で死んでいった若き姫…私まめこぞうは想像するだけで涙ぐんでしまうのでした。ちなみに私、「ほたるの墓」なんて泣いちゃって最後まで見たことないんです…

第3話 畑灌支線水路

2002年04月01日 00:00

第3話 畑灌支線水路

畑灌支線水路

前回とりあげた畑灌水路の続きです。

昭和48年、キャンプ座間周辺を通る支線水路

支線水路とは

畑地灌漑水路には昭和三十一年(1956年)ごろに水が流れ始めましたが、それは幅数mの「幹線水路」と呼ばれる部分でした。これに付随して昭和三十四年まで、太さ50cmほどの支線水路がいくつかつくられました。幹線水路は小川のような一般的な用水路の形をしていますが、支線水路はコンクリート製の土管で、数mおきにある脚に支えられ、地面より上の空中を通っていました。土管というのは正しくないかもしれませんが、横倒しにした円筒の上部に穴をあけたようなものや、円筒を半分に切ったような形のものがありました。写真を見ていただくとわかるでしょう。

不要になった水路は邪魔なだけ?!

幹線水路はその両脇に地面よりほんの少し高い盛り土がしてありましたが(まめこぞう第2回、桜並木の写真参照)小さな道と交差しても道の方がその盛り土を登って橋を渡るようになっていました。大きな道路と交差するときは水路の方が地下にもぐり、サイフォンの原理で反対側に出てくるようになっていました。

しかし人の腰ほどの高さを通る支線水路は橋を架けるわけにいきません。なんとめんどうなことに小さな道であってもいちいち地下にもぐっていたのです。道の両側に一辺1mほどの井戸のような四角いコンクリート製の縦坑があり、これがコンクリートの縁から1~2mほど下の地下で結ばれており、水路はこの穴に連結されていました。周辺の宅地開発が進んでくると幹線水路は暗きょにして歩道化する方が都合がよかったのですが、支線水路はただ邪魔なだけでほとんどすべて撤去されました。それでもしばらくは土管の中に土を入れ、別の場所でプランターとして活躍している姿や畑の境界として第二の生活を送る姿も見られました。

でもさすがにもうどこにも見かけられなくなってしまいました・・と思っていたら、まめこぞうの師匠の一人、相模が丘小学校の野上先生がまだ支線水路が残されていたことを教えてくださいました。場所は栗原の日産自動車栗原寮西側です。まったく利用されていない水路ははずれて傾いていますが、たしかにあの縦坑もいくつかあります。これもあと数年で消滅してしまうんでしょうね。40年以上前、大地を潤し、豊かな収穫を約束してくれるものと期待されていた水路なんですが・・・

平成14年、日産栗原寮脇に残っていた支線水路

支線水路はどこを通っていた?

座間市を通る幹線水路は「西幹線水路」といいます。(相模大野の方にあるのが「東幹線水路」なんでしょうかね。)これらから枝分かれした支線水路はいくつもあり、ひばりが丘や東原を通っていたところは今でも道路になっています。ひばりが丘3・4丁目の境界、(ひばりが丘小学校近くの派出所からひばりが丘高校の入り口近くに向かう大きな通り)東原3丁目の国道246号線マクドナルド駐車場からまっすぐ南に向かう歩道などがそうです。また、幹線水路の水が多すぎたときの排水路が246号から東地区文化センターの前の坂(文祖坂:ぶんそざか)を下り、目久尻川に通じていました。

まめこぞうの思い出

私はこどものころ幹線水路の中を愛犬と走り回ったり、支線水路の上を落ちないように歩いたりして遊んだことがあります。相模原市麻溝の相模原公園ができる前、その谷を越える支線水路の今にも落ちそうな橋を渡ろうとして恐くてできなかった記憶もあります。中学生だったある日、例の縦坑の一つをのぞいたら深い水の中に1匹のカエルがじっとうずくまっていました。水面がかなり深いところにあり、このカエルは穴から出られないのでした。まさに「井の中の蛙、大海を知らず」です。このカエルはわずかの雨水といつ得られるかわからない餌だけで生きていたのです。

私は自分があのカエルだったらと思うとぞっとしましたが、頭の中では井伏鱒二の小説に出てくるばっぷくどん(カエル)とか食糧自給率が低い日本の将来のことが渦巻いていました。そして冬、水は凍りつき、春、とけた氷の下にはカエルの骨だけが体の形どおりに美しいほど整然と並んでいました。恐ろしくて恐ろしくて・・・今、座間に残っている支線水路では、人が落ちないようにこの井戸状の穴はすべて埋められています。

第2話 桜並木

2002年03月18日 00:00

第2話 桜並木

桜並木

座間市の名所の一つに桜並木があります。北は小田急相模原駅の西方から東中学校の西隣を通り、さがみ野駅の方へと続く道です。入学式のシーズンになると見事に咲きほこるその桜は、今となっては考えられないような用水路の完成を祝って植えられたものだったのです。

用水路がつくられる以前

座間市は相模川が作る河岸段丘から成り立っています。西の相模川に近い方には水を得やすい低地があり、ここは水田として利用することが多いですね。これに対して東部の台地は水を得にくく、昭和以前はよくて畑地、ほとんどの土地はそれもできない「柴原」(しばはら)でした。昔話でおじいさんが柴刈りに行く、あの柴です。昭和の初め、相模原や座間は一大軍事都市となり、この台地が軍関係の施設として利用されるようになりました。特に座間の東原は海軍の大工場(高座海軍工廠:こうざかいぐんこうしょう)がつくられました。これに関してはまたいずれここで紹介します。

畑地灌漑事業と桜並木の誕生

昭和二十年(1945年)、太平洋戦争が終わって数年間は日本中で食べるものがない、苦しい時代でした。「戦後の食糧難」といいます。(現在のようにコンビニエンスストアで気軽に何でも買える時代では、まめこぞうのように若い人には想像がつかないでしょうね。)そこで少しでも農地を広げて食糧を増産しようと、国をあげて相模原、大和、座間、海老名、綾瀬、藤沢などの台地に灌漑(田畑に水をやること)用の水路をつくることになりました。これを「相模原開発畑地灌漑事業」、略して「畑灌」(はたかん)といいました。昭和三十年頃、多くの人々の期待を担って水路建設は成し遂げられました。

座間の東原では戦後取り壊されたばかりの高座海軍工廠の跡地の真ん中を水路が通りました。ここは工廠の中で作られた飛行機の試験飛行用滑走路でした。初めて水が流れてきたときは町中が大喜びだったそうです。そこで翌年、工廠の跡地で盛大な祭りが行われました。このとき芹沢の人達が「畑灌音頭」という曲を作詞し、みんなで歌って踊りました。「東京音頭」の替え歌です。みなさん歌えますか?


  一 ハァー 踊り踊るなーら ちょいと畑灌音頭
    ヨイヨイ
    夢に描いた 夢に描いたときがきた

    ※ヤーッとなー それヨイヨイヨイ
     ヤーッとなー それヨイヨイヨイ

  二 ハァー 水だ水だよ ちょいと東の原に
    ヨイヨイかけた畑にゃ かけた畑にゃ黄金咲く
    ※くりかえし

  三 ハァー 秋だ秋だよ ちょいと稔りの秋だ
    ヨイヨイゆれる穂波に ゆれる穂波に笑がわく
    ※くりかえし


水路が完全にできあがった昭和三十一年(1956年)、これを記念して有志の方が水路沿いに桜を植えました。これが現在の桜並木です。初めは小さな苗でしたがものすごい数です。植えるだけでもかなりのご苦労があったでしょう。しかも育たずに枯れてしまう苗もあり、また植え替えることもあったそうです。

畑灌水路、昭和48年、相模原市。すでに水は流れていない。

畑灌水路のその後

せっかく莫大な費用をかけて作った灌漑用水路でしたが、利用代が高い割に計画していたよりうまく農業ができず、昭和三十年代から台地の上に工場や住宅が建ちはじめ、畑が減っていきました。そして昭和四十五年(1970年、このころ日本は急激すぎる発展をしていました。)ついに水路の水は止められ、その仕事を完全に終えました。そのあと水路の深まりに子供が落ちるという事件があったため、水路はすべてコンクリートのふたでおおわれ、そのまま歩道として第二の歴史がスタートしました。

暗きょ化される直前の水路、相模原市。
深さは1 mほど。

桜花の碑と畑かんの碑

国道246号線近くの桜並木の植え込みに2つの石碑が建っています。一つは小さいので見逃してしまうかもしれません。「畑かん」とだけ彫られたものです。畑灌水路がとても大切だったことの証拠です。もう一つは大きな石碑で「桜花」(おうか)という題字の下に、灌漑用水路と桜並木の歴史を簡単に記しています。碑文は「私達は深い感慨をこめて永くこれを見守るであろう。」と結ばれていますが、桜並木誕生からはや半世紀、そのいきさつを知る人も少なくなってしまいました。

今も町のシンボルとして愛される桜並木、春にその花を見上げるとき、夏に木陰で涼むとき、秋に葉が色づいていくとき、思い出して下さい・・
桜並木だけでなく畑灌水路の建設に携わった多くの人々の努力とつかのまの夢を・・・
その汗と涙が今年も美しい花を咲かせているのです・・・

第1話 鈴鹿明神社

2002年03月06日 00:00

第1話 鈴鹿明神社

鈴鹿明神社(すずかみょうじんしゃ)

座間の鎮守(ちんじゅ)として古くから親しまれてきた神社ですから、初詣などに行ったことのある人も多いでしょう。この神社がどのようにしてできたかについて、古い伝説に興味深い記述があります。

鈴鹿明神社の縁起

欽明天皇(きんめいてんのう)の御代(古墳時代から飛鳥時代に変わる少し前、およそ540~570年頃)、伊勢(三重県)の鈴鹿神社のお祭りでみこしが船に乗せられた時、暴風雨のため船ははるか東に流されてこの地に着きました。

梨の木坂(なしのきざか)に住む龍神(座間にもともといた神)はみこしの中の宝物を欲しがり、七日七晩暴れました。これに対して流れついた鈴鹿の神は宝物を与えてしずめ、ここに落ち着くことにしました。

そのころ勝坂(かつさか:相模原市にある)に「あるか」という蛇の神がいました。あるかは鈴鹿の宝物をねらって戦いをいどんできましたが、これに地元の神も加わり、3つの神とも大蛇となってみつどもえの激しい戦いがくりひろげられました。結局あるかの神は負けて南へ逃れ、海老名の鎮守になりました。


神々の戦いとは

ここに出てくる神々はすべて当時の人々のことではないでしょうか。そう考えるとわかりやすくなります。「鈴鹿の神」を信じる人々が、なんらかの理由で伊勢の方からこの座間にやって来ました。おそらく暴風雨で流されたのではなく、伊勢にいられなくなる大きな問題があったと思われます。

しかし座間にもともといた人々にとっては見知らぬ集団が突然やってきたことは侵略ともうけとれます。そのために座間の人々は梨の木坂の神(現在の諏訪神社)のもとに集結し、鈴鹿の人々と戦いました。あるいは座間古説にあるように、鈴鹿の人々の持ち物が欲しくて戦ったのかもしれません。鈴鹿の人々は座間の人々に宝物を差し出すことで仲直りしたのでしょう。いわば和平協定です。ところが今度は北から「有鹿の神」を信じる人々が攻めてきたとき、今度は鈴鹿・座間連合軍がこれを打ち破り、有鹿軍を海老名へと追い払ったのではないでしょうか。
なんだか映画を作れそうな話ですね。海老名市に有鹿神社があり、また座間の少し北、相模原市の勝坂に有鹿谷という所があります。有鹿神社では年に一度、「有鹿様の水もらい」といってはるばる勝坂まで水をくみに行きます。そのとき座間を通過するのですがなぜか座間ではずっと昔からこれをじゃましたり厳しい条件を付けたりしてきました。これは水田に引く水の奪い合いが原因だと言われていますが、1500年前の戦争の勝敗が原因になっているのかもしれません。

梨の木坂の諏訪神社
昭和51年


鈴鹿の人々はなぜ座間へやって来たのか

これらの伝説では鈴鹿のみこしを乗せた船が暴風雨で座間に流れ着いたとされていますが、いくら暴風雨でも伊勢から相模まで船が流されるとは考えにくいものがあります。たとえ流されたとしても、それが事故なら伊勢に戻ってもいいはずです。しかしこの人々は自分の土地に戻らなかっただけでなく、わざわざ相模湾から相模川をさかのぼって座間に上陸したことになります。これははじめから伊勢に戻る気がなかったことの証拠です。当時の海岸線は現在よりかなり内陸にあったのですが、それでも厚木よりは南で、歴史時代に座間が海になったことはないのですから。また相模川は今よりずっと東、ユニーや座間高校のあたりを流れていたようで、鈴鹿の人々がユニーの駐車場あたりから上陸したとすれば、それはまさに現在の神社の境内なのです。

ところで欽明天皇は敏達、用明、崇峻、推古といった4人の天皇の父君で、聖徳太子のおじいさんにあたる方です。そのころ近畿地方では蘇我氏や物部氏、大伴氏などの有力な豪族がいろいろな理由からお互いに争っており、負けた方は殺されることもありました。このため豪族に関係のある多くの人々が自分の土地を捨て、地方へ脱出しました。ちなみに蘇我稲目(そがのいなめ)、馬子(うまこ)の父子が強大な権力を手に入れつつあった頃です。この話に直接は関係ありませんが、馬子の子と孫が大化の改新で有名な蝦夷(えみし)と入鹿(いるか)です。まめこぞうは座間古説にある伊勢から座間に来た人々も、こんな理由で脱出してきたのではないかと考えています。暴風雨に流されたというのも、敵に包囲された中、暴風雨にまぎれてその目をあざむき、脱出に成功したことをぼやかして伝えたのではないかと思うのです。神社のみこしを持って逃げてきた人々とは?・・日本古来の神を守ろうとしたのは物部氏であり、のちの戦いの勝者は蘇我氏、ではそれは誰だったのか、当時伊勢で何があったのか、わくわくしながら現在も調査を続けています。

まめこぞう

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