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第34話 一つ目小僧地蔵

2007年01月08日 00:00

第34話 一つ目小僧地蔵

第34話 一つ目小僧地蔵


市内某所にある墓地のすみに「一ツ目小僧地蔵菩薩」と刻まれたお地蔵様が立っています。これは伝説ではなく、本当にいた「一つ目小僧」の霊をとむらうために作られたものです。
今回の話はさまざまな問題を抱えていますので、おもしろ半分に読まないでくださいね・・

決定的証拠の頭蓋骨発見


昭和7年(1932年)、お墓を作るために土を掘っていた人が、偶然頭蓋骨(ずがいこつ)を掘りだしました。昔は土葬(どそう:遺体をかんおけごと土に埋める方法)それ自体は決してめずらしいことではなかったのですが・・

その頭蓋骨には、2つあるべき目のくぼみ(眼窩:がんか)が真ん中に一つしかなかったのです。
さらに額(ひたい)には角(つの)のようなものが2本はえていたといいます。

かなりの大騒ぎになったようです。地元の人々が集まり、警察官までもが事実を確認し、その骨を別の場所に運びました。

その後は

 何度か場所を変えて埋葬されましたが、今はその正確な位置がわからなくなってしまいました。
お墓の持ち主はこの骨の主をとむらうために掘り出された場所に石の地蔵菩薩をたて、今でも欠かさずに供養を続けていらっしゃいます。

地蔵のお堂です。
これはお墓を改修する前の写真です。
今は感じがかなり変わりました。

お堂の後ろに立てられた卒塔婆(そとば)です。
書かれた文字に注目!

誰だったのか?


一つ目小僧などと呼ぶと妖怪のようですが、妖怪などではなく、れっきとした一人の人間であったはずです。ただ肉体的(にくたいてき)障碍(しょうがい:最近は障害という字を使わないんです)を持って生まれただけだったのでしょう。

しかし

「この人」が男だったのか女だったのか、
地元の人だったのか外からやって来た人なのか、
病気で死んだのか殺されたのか、
なぜここに埋まっていたのか
いったいいつごろ生きていたのか
何才だったのか‥

すべては謎です。ただ、周囲の人々がまったく知らなかった事から見て、「この人」は昭和よりずっと前、おそらく江戸時代に生きていたのではないかと思われます。

まめこぞうは思う


 今と比べて人権に対する考え方がひどいものだった昔、「この人」の送った人生はなみたいていのものではなかったでしょうね。一般的な人と何かがちょっとでも違えば徹底的に差別された時代、特に障碍者に対してはかなりの差別があったようです。
体の部分ごとに不自由な状態を表す差別的な言葉があり、いちいちその状態をバカにするのにつかわれました。障碍が重度の場合は人前に出るだけで石をぶつけられる場合もありました。明治時代、野口英世さんがいじめられた話は有名ですよね。
子が生まれながらに障碍を持つのは、親や先祖が悪いことをした報い(むくい)だという間違った考えが広まっていましたので、家族までが差別されることもありました。

昔は畑仕事などで間違って目を傷つけ、それが原因で失明してしまうことも多くありましたが、それでさえも「片目」だ「一つ目」だとさげすまれたのです。そんな中で生まれつき目が一つだった「この人」はどうやって生活していたのでしょう? そんなことを考えるとまめこぞうはうるうるしてしまうのでした‥

 ちょっと話がそれますが、まめこぞうが子供の頃、お祭りの見せ物小屋で顔が人で体が蜘蛛(くも)の「蜘蛛女」とか、あり得ないものを見せて金をとる興行(こうぎょう)の客引きが
「親の因果(いんが)が子に報い~・・かわいそうなのはこの子でござ~い」
なんて言ってましたっけ。差別そのものを売り物にしてるわけです。まぁ蜘蛛女なんてニセ物でしたけど。でも19世紀のロンドンでは「エレファントマン」と呼ばれた人が実在し、見せ物にされていました。洋の東西を問わず、人は皆同じなのでしょうか・・

他にも実在したかも


一つ目小僧というと多くの人はこんな姿を想像しませんか?これはマンガの一休(いっきゅう)さんなどでおなじみの「寺で修業(しゅぎょう)する子供」、「小さな僧」、つまり「小僧」のかっこうです。だから一つ目小僧と呼ばれるのですが、なぜ一つ目さんは寺の小僧をしているのでしょうか。

 「百鬼夜行」(ひゃっきやぎょう、またはひゃっきやこう)などという妖怪図鑑のような絵に一つ目小僧が登場して有名になったという理由もあるでしょうが、本当は日本のどこかに実在していた人なのではないでしょうか。

 「単眼症(たんがんしょう)」といって、目が一つしかない状態で生まれる症例があるそうです。脳も左右に分離していないので生まれる前後に死んでしまうのだそうですが、まれに生き残る事もあったかもしれません。すぐ殺された場合もあったかもしれません。殺すのもかわいそうと思った人が生きたまま捨てたら・・多くは犬に食われてしまったそうですが、もしお寺の関係者が拾い、寺の中にかくまって育てていたとしたら…
いくら寺であっても人目に触れさせるわけにいきません。昼は室内に隠れて仏の道を学び、夜には寺の仕事として境内(けいだい)の掃除をしていたかもしれません。
そんなところを誰かに見られてしまったら・・・夜のお寺に一つ目の子供がいたら…それはだれもがお化けや妖怪と思うでしょうね…
一般に一つ目小僧は突然現れて人をおどかすが、それ以上の悪さはしない、と言われているのはこのためかもしれません。
まめこぞうの勝手な想像ですが。

まめこぞうは国立の大きな病院で医師をしている友人からこんな話を聞きました。
「今でも体の形が大きく異なる子は時々生まれるんですよ。あるべき部分の数が多かったり少なかったり、ついている場所が違ったり。手術で何とかできる場合は何とかしますが、できない場合は・・・」
そうなんですか・・・そう言えば日本の神話にも登場しますね。イザナギノミコトとイザナミノミコトの間に最初に生まれた子は人の形をしておらず、父であるイザナギノミコトはそれを流したと・・
2千年以上前の神話時代とほとんど変わってはいないのですね。ベトナムの病院では、ベトナム戦争の枯葉作戦でダイオキシンを浴びた村で生まれたさまざまな形の赤ちゃんが今でもホルマリンづけで展示されています。その中には目が一つどころか目が一つもないもの、体のパーツがついている位置が大きくずれているものなどさまざまです。
ブラックジャックはピノコを救ったけれど、それはマンガの中です。

再び「この人」について


 座間の「この人」は小僧さんであったわけではないでしょうから「座間の一つ目小僧」と呼ぶのは正しくないと思います。しかしその名はこの「まめこぞうの旅」で紹介するまでもなく大変有名で、さまざまな本に掲載されて全国で出版されています。ただ、どの本も「この人」を妖怪のように扱い、おもしろがっているだけです。
まめこぞうもここにこんな事を書いているのですからその本を書いた人と同じなのかもしれません。しかしこれを読んでいるみなさんは興味本位でこれ以上「この人」のゆくえを探さないであげてください。

追伸  障碍者を取り巻く社会


 まめこぞうの母は重度(じゅうど)身体障害者(ここではあえてこの字をつかいます)です。
片方のひざがまったく曲がりません。生まれたばかりの私を抱きかかえてころんだときのけがが原因でひざの関節が腐ってしまい、取り除いて金属棒で固定したのです。ころんだ瞬間私を手放すわけにいかず、道路に勢いよくひざをたたきつけたのだそうです。
脚が腐り始めたとき、医師から「良くて片足切断、悪ければ死ぬ」と宣告され、私を育てること以外のすべてをなげうって大手術を何度もしました。合計で何年間も入院していました。
自分が小さかった頃の思い出といえば、KO病院に通った日々と退院しても家で寝たままの母の姿です。
 その母がやっと少し外に出られるようになった頃、私は母と手をつないで歩きました。うれしくてではなく、母の体を支えるためです。(役には立っていなかったかもしれませんが)
ところが、買い物に出た時の街の人々の反応は子供の私が見てもびっくりするものでした。すれ違う人の多くが恐ろしい物を見るような顔をして母の脚をにらむのです。めずらしかったのでしょう。見られるだけなら何でもないのですが、知らない人々がわざわざ「あれ?びっこなの?どうしたの?」と声をかけてくるのには困りました。(注:あえて差別語を記載しました。事実そう言われたのですから。)外出すれば必ずと言っていいほど声をかけられました。中には「頑張ってね」という人もいたのですが、よけいなお世話です。普通に歩かせて欲しい。
 何もしていないのにすれ違ってからこちらを指さし、差別語でののしった人もいました。母は毅然として戦っていました。
 脚が曲がらないので座席に普通に座ることができないのですが、バスの中で立っていたら一見親切な人が席を譲ってくれました。母は感謝の意を表しつつ理由を説明して丁重にお断りしたのですがその人は「せっかく譲ってやったのによう!」と怒り出してしまいました。見かけだけの親切。
私は子供心に思いました・・なんてかわいそうな人たちなんだろう。
これは昭和中頃、東京都のまちなかでの話です。


 そのちょっとあとから世間では古くからある数々の差別語を消し去るために「放送禁止用語」などといって使うことを禁止し出しました。障害はすべて「不自由」という表現にかえられました。全部ひっくるめて「身体障害者」という言葉が定着していきました。テレビでは「座頭市」なんか差別語だらけなので再放送できなくなってしまいました。何だか逆に不自由になったような気がしました。
差別語を消し去れば差別がなくなると思ったのでしょうね。ところがです。その頃から小中学校で流行し出した言葉は・・・
「おまえは顔と頭が不自由だな」
「おまえ、身体(しんたい)じゃねえの?」
「あいつしんだぜ!さわんな、しんがうつる!」
そうです。身体障害者という新しい言葉そのものが差別につかわれ出したのです。

差別語を力でただねじ伏せても、人の中に差別する心がある限り、何も変わらないのです。

子供が悪いのでしょうか?学校が悪いのでしょうか?
いえ、街の大人達による我が母に対する数え切れない差別(というか迫害に近い)を小さいときから見てきた私は違うと思ったのですが・・

 それから数十年、世の中は障碍者にとってちょっぴり良くなってきました。母は30代で運転免許を取得し、特殊仕様車を操ってどこにでも行ってしまうようになりました。北海道も父と交代で運転して一周してきました。富士箱根伊豆や房総半島なんか数え切れないほど回ってほぼすべて知り尽くしています。もう70過ぎたというのに毎週何回か数十キロ離れたところまで通って仕事をしています。不思議な難病にかかって体が動かなくなっている父は街の人々に支えられて笑顔で生活しています。そういうことができる時代になったんです。
日本が今、「美しい国」になりつつあるということを感じます。

第33話 番神水(後編) 三十番神

2006年02月26日 00:00

第33話 番神水(後編) 三十番神

第33話 番神水(後編) 三十番神


 番神水は番神堂と呼ばれる小さなお堂の後ろからわき出ています。
お堂の格子からのぞくと榊(さかき)の奥に小さな紳像がたくさん立っているのが見えます。この神様たちが三十番神です。

三十番神とは


 毎日順番に日替わりで世の中を守って下さる三十柱(はしら:神様の数をかぞえるときは「人」ではなくて柱という単位をつかいます)の神様集団です。日直のような感じですね。この神様は毎月一日は熱田明神(あつたみょうじん)、二日は諏訪明神(すわみょうじん)というように担当する日が決まっていて、三十人で一回りしたらまた元に戻ります。


三十柱のそれぞれのお名前は次のとおりです。
(ついでにそれぞれの神様が本来まつられている場所もつけました。近畿地方に集中していますね。)

座間 番神堂 三十番神 一覧


神様の名前は円教寺の解説によりますが、赤山明神は赤城明神となっているものを訂正しました。

一日
熱田明神 (あつたみょうじん)愛知県 名古屋市熱田神宮
二日
諏訪明神 (すわみょうじん)長野県 諏訪市諏訪大社
三日
広田明神 (ひろたみょうじん)兵庫県 西宮市広田神社
四日
気比明神 (けひみょうじん)福井県 敦賀市気比神宮
五日
気多明神 (けたみょうじん)石川県 羽咋市気多大社
六日
鹿島明神 (かしまみょうじん)茨城県 鹿島市鹿島神宮
七日
北野明神 (きたのみょうじん)京都府 京都市北野天満宮
八日
江文明神 (えぶみみょうじん)京都府 大原野村町江文神社
九日
貴布祢明神(きぶねみょうじん)京都府 京都市貴船神社
十日
天照大神 (あまてらすおおみかみ)三重県 伊勢市伊勢神宮
十一日
八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)京都府 京都市石清水八幡宮
十二日
加茂明神 (かもみょうじん)京都府 京都市賀茂神社
十三日
松尾明神 (まつのおみょうじん) 京都府 京都市松尾大社
十四日
大原明神 (おおはらみょうじん) 京都府 京都市大原野神社
十五日
春日明神 (かすがみょうじん)奈良県 奈良市春日大社
十六日
平野明神 (ひらのみょうじん)京都府 京都市平野神社
十七日
大比叡明神(おおびえみょうじん)滋賀県 大津市日吉大社
十八日
小比叡明神(こびえみょうじん)滋賀県 大津市日吉大社
十九日
聖眞子権現(しょうしんしごんげん)滋賀県 大津市日吉大社
廿日
客人権現 (まろうどごんげん)滋賀県 大津市日吉大社
廿一日
八王子権現(はちおうじごんげん)滋賀県 大津市日吉大社
廿二日
稲荷明神 (いなりみょうじん)京都府 京都市伏見稲荷大社
廿三日
住吉明神 (すみよしみょうじん)大阪府 大阪市住吉大社
廿四日
祇園明神 (ぎおんみょうじん)京都府 京都市八坂神社
廿五日
赤山明神 (せきさんみょうじん)京都府 京都市赤山禅院
廿六日
建部明神 (たけべみょうじん)滋賀県 大津市建部大社
廿七日
三上明神 (みかみみょうじん)滋賀県 野洲町御上神社
廿八日
兵主明神 (ひょうすみょうじん) 滋賀県 中主町兵主神社
廿九日
苗鹿明神 (のうかみょうじん)滋賀県 大津市那波賀神社
三十日
吉備明神 (きびみょうじん)岡山県 岡山市吉備神社


三十一日はどうするの?


 実は明治5年(1872年)12月より前、日本には「三十一日」という日は無かったのです。
今、世界中のほとんどの国で使われている暦(こよみ)は太陽の動きを基準にして定められた「太陽暦」(たいようれき)ですが、日本では月の満ち欠けを基準にした「太陰暦」(たいいんれき)をつかっていたのです。

 月は新月から満月へ、また新月へと約29.5日周期(正確には29.53059日)で満ち欠けします。太陰暦はこの新月の日を1日(ついたち)として次の新月までを1月(ひとつき)と数えたのです。
(だから「ひとつき」は「月」という文字をつかうのです)

 実際には29.5日という小数をつけるわけにはいかないので29日の月と30日の月をほぼ交互に置き、29日の月を「小の月」(しょうのつき)30日の月を「大の月」(だいのつき)といいました。微妙なずれの調整に、ときどき大の月を連続して置く事もありました。
しかしこのままだと1年が354日か355日で、太陽が1周する365日より10日以上短いために季節がずれていってしまいます。そこでときどき13番目の月を入れてずれをおぎなっていました。この13番目の月を「閏月」(うるうづき)といいました。
ですから昔は12ヶ月の年と13ヶ月の年があったということですね。
これでは農業を営むのには困ります。いつ種をまくのか、いつ田植えをするのか、年によってずれてしまうからです。これを解決するために「二十四節気」(にじゅうしせっき:立春、大暑など、季節の変わり目を表す24の日)が定められていました。
でも一般の生活には大きな影響はなく、むしろ夜の月を見ただけでカレンダーがなくてもその日が何日であるのかわかって便利だったかもしれません。(三日月なら3日、満月なら15日)

ちょっとトリビア


明治5年、それも12月になって明治政府は太陰暦を廃止し太陽暦に変えました。これは世界の仲間入りをするために欧米諸国に合わせるのが当然の成り行きだった・・といえばそれまでですが、なぜそれ以前にしなかったのにこの年に実施したのか・・・
実はこのとき明治政府は公務員に給料すら払えないほど絶望的にお金が足りなかったのです。しかもこの年は閏月のある年・・つまり1年が13ヶ月もあったのです。言い換えれば・・給料を13回払わなければならなかったのです。そこで太陽暦を取り入れて1年を12ヶ月と決めてしまえば1ヶ月分の給料を払わなくてすむ!というわけでぎりぎりの12月にあわてて太陰暦を廃止したのだと言われています。

もし今も太陰暦が用いられていたら・・
13ヶ月の年は日数が385日ぐらいあり、12ヶ月の年は355日ぐらい・・
学校ではこの差があっても同じだけの量勉強するのだとしたら、学年によって大変な事になりますね。

第32話 番神水(中編) 円教寺と日蓮上人

2006年02月04日 00:00

第32話 番神水(中編) 円教寺と日蓮上人

番神水 中編 日蓮上人と円教寺


 このわき水は、有名な日蓮上人が最初に掘ったものだと言い伝えられています。本当にあの日蓮上人がいらっしゃったようです。座間の昔話の中でも最大級にメジャーな方の登場です。(もう一人、座間を訪れた超有名人として徳川家康公がいらっしゃいますが、それはまたいずれ)

まず基礎知識、「龍ノ口の法難」(たつのくちのほうなん)


 日蓮上人は鎌倉時代の中頃、鎌倉幕府の政治や当時の宗教のあり方を遠慮なく批判したため、有力者からかなり反感を買い、襲撃されて家を壊されたり弟子を殺されたりもしました。
それでもまけずにいた上人もついに捕まってしまい、新潟の佐渡島(さどがしま)に流罪(るざい)にするという判決がおりました。流罪とは遠いところや島におしこめてつらい生活をさせ、場合によっては死ぬまでそこから出させないという刑です。

 文永(ぶんえい)八年(1271年)9月12日、日蓮を連れた幕府の役人たちは佐渡に向かうと言いながら鎌倉の隣にある「龍ノ口」(たつのくち)という刑場に向かい、その夜のうちに首をはねて殺してしまおうとしました。しかし死刑執行人が刀を振り上げたとたん、空中に光る玉が現れ、周囲は大パニックになり、しかもその刀が折れてしまったために死刑は中止になりました。これを「龍ノ口の法難」(たつのくちのほうなん)といいます。場所は腰越(こしごえ)の龍口寺(りゅうこうじ)が建っているところです。

ちなみにその刀の名を「蛇胴丸」(じゃどうまる)といいました。
死刑に失敗した幕府の役人は、今度は本当に佐渡に護送することにしました。翌日の9月13日、日蓮上人は龍ノ口から佐渡へ向かう途中、まず厚木の依智(えち:今は依知と書く)にある本間という人の屋敷にあずけられました。

これはけっこう有名なお話で、ご存知の方も多いと思います。
この話と番神水の間にどんな関係があるか・・・いよいよ本題!

円教寺に伝わる話をもとにしたかいせつー


 龍ノ口で日蓮上人に向かって振り上げられたものの、光る玉の出現で3つに折れた刀、「蛇胴丸」を作ったのが現在の円教寺の場所に住んでいた鈴木弥太郎貞勝(すずきやたろうさだかつ)という人でした。
そしてあの事件の翌日9月13日、昨夜のうわさを聞きつけた鈴木弥太郎貞勝が、依知に向かって相模川を渡る前にぜひ自宅にお立ち寄り下さいと申し出たことにより日蓮の一行は貞勝の屋敷で休息を取ることになりました。

このとき貞勝は日蓮の教えに入信し、円教坊(えんきょうぼう)という名をいただきました。円教坊はこのあたりの水が刀作りに適さないことを話すと、日蓮は石に南無妙法蓮華経の文字を書き、「三十番神」(さんじゅうばんじん)をまつって地面を掘りました。その時わき出た泉がこの番神水だというのです。

(写真は現在の円教寺。日蓮上人が休んでいったので山号を「休息山」といいます。)


ものすごいお話でしょう?
事実かどうかは別にして、まめこぞうだけでなく多くの人がわくわくするお話ですので、このあたりをちょっとくわしく・・

日蓮上人が佐渡から戻ったあと、(龍ノ口の5年後)建治(けんじ)二年(1276年)自分自身でお書きになった「種種御振舞御書」(しゅじゅおんふるまいごしょ)を引用させていただきます。

「種種御振舞御書」(しゅじゅおんふるまいごしょ)から抜粋


・・・こしごへ(腰越)たつ(竜)の口にゆきぬ。
此にてぞ有らんずらんとをもうところに、案にたがはず兵士どもうちまはりさわぎしかば、左衛門の尉申すやう、只今なりとなく。
日蓮申すやう。不かくのとのばらかな、これほどの悦びをばわらへかし、いかにやくそく(約束)をばたがへらるるぞ、と申せし時、
江のしま(島)のかたより月のごとくひかりたる物、まり(鞠)のやうにて辰巳のかたより戍亥のかたへひかりわたる。
十二日の夜のあけぐれ(昧爽)、人の面もみへざりしが、物のひかり月よ(夜)のやうにて、人人の面もみなみゆ。
太刀取目くらみたふれ臥し、兵共おぢ怖れ、けうさめて一町計りはせのき、或は馬よりをりてかしこまり、或は馬の上にてうずくまれるもあり。
日蓮申すやう。いかにとのばら、かかる大禍ある召人にはとをのくぞ。近く打ちよれや、打ちよれや、とたかだかとよばわれども、いそぎよる人もなし。
さてよ(夜)あけばいかにいかに、頚切べくはいそぎ切るべし、夜明けなばみぐるしかりなん、とすすめしかども、とかくのへんじ(返事)もなし。
 
 はるか計りありて云く、さがみ(相模)のえち(依智)と申すところへ入らせ給へと申す。 此れは道知る者なし。さきうち(先打)すべしと申せども、うつ人もなかりしかば、さてやすらうほどに、或兵士の云く、それこそその道にて候へと申せしかば、道にまかせてゆく。午の時計りにえち(依智)と申すところへゆきつきたりしかば、本間六郎左衛門がいへに入りぬ。

まめこぞう的口語訳


(日蓮上人は「流罪」と言われて引っ立てられたのに、龍ノ口につれてこられてみるともう兵士がいて死刑執行準備ばんたんという状態なのを見て怒ります。)
すると江ノ島の方から月のように光るボールのようなものが南東から北西に向かって飛びました。12日夜、人の顔が見えるほど明るくなり、執行人の太刀取りは目がくらんで倒れ、他の兵士も怖がって100mあまりも逃げる者、馬から下りてひれ伏す者、馬の上でうずくまる者などがいました。
日蓮はその者たちに怒鳴りつけます。
「おまえら、私が大きな罪を犯したのだとすればなぜ遠のくのか!近くに寄れ!」
しかし誰も寄ってきません。続けて言います。
「夜が明けてしまうではないか!首を切るなら早くしなさい!夜が明けてからでは見苦しい!」
しかしだれも返事すらしませんでした。
しょうがないので相模の依智に送られることになりましたがみんな道がわかりません。先回りして待ち伏せしようと言う人もありましたがやる人はいませんでした。
ある兵士が道を知っていたのでその日のひる、12時頃に依智の本間六郎左衛門の家に着きました。


光る玉とは何なのか・・・
雷ではなさそうです。スピードもあまり早くはなさそうです。神のわざ?狐火?人魂?プラズマ?流星?彗星?UFO?さまざまな説もあるようですが、「そんな玉はなかっただろう」という意見も多く、日蓮宗の偉い立場にある方の中にもそういうお考えを持つ方がいらっしゃるようです。
死刑が中止になったのは、「日蓮を殺してはならない」という執権(しっけん)北条時宗(ほうじょうときむね)の命令が執行直前に龍ノ口に届いたからであって、光のせいではないという説もあります。
また、座間の鈴木邸に立ち寄ったと言いますが、12時頃には依智に着いているのですから時間的に無理があるのではないかという見方もあります。
さらに、鈴木弥太郎という人は日蓮と同じ時代ではなく、ずっと後の戦国時代に生きた人ではないかという説もあります。
さて、真相はまめこぞうにもまだわかりません。

このわき水をなぜ番神水と呼ぶのか・・答えはもうでていますが、これまた次回に続くのでした。

おまけ 映画に見る龍ノ口のシーン


長谷川一夫主演の大映「日蓮と蒙古大襲来」(昭和33年)では
光る玉というより稲妻が振り上げた太刀に当たり、刀身がくだけます。

(左の写真はその映画からお借りしました。まさに処刑直前、光るものが太刀に当たるシーンです。
座っているのは日蓮役の長谷川一夫さん、気高いかんじです。太刀を持つのは依智三郎役の田崎潤さん。田崎さんは軍人役が似合います。)

萬屋錦之介主演の松竹映画「日蓮」(昭和54年)では
光が現れたあと、日蓮自身に後光がさし、竜巻のような現象で兵士がとばされていきます。

どちらも日蓮上人ご本人の書いたものとも違うようですが、そこは映画・・
まめこぞうは市川雷蔵さんが好きなので、雷蔵さんが執権時宗を演じている大映の方もいいと思うのですが、新しい作品である松竹の方がはるかにリアルで劇的である気がします。特に錦之介さんの鬼気迫る演技は喜怒哀楽の中でも特に「怒」で発揮されますよね。激しい怒り、静かな怒り・・まるで東大寺戒壇院の四天王像のような表情・・・子連れ狼:拝一刀(おがみいっとう)がその最たるものだったなぁ・・・

第31話 番神水(前編)

2005年12月04日 00:00

第31話 番神水(前編)

第31話 番神水(ばんじんすい) 前編


座間小学校の北東、円教寺(えんきょうじ)の東側にある崖(がけ)からわく水です。

レキ層がよく見える


 垂直に切り立った崖には大小さまざまなレキ(石)があります。ここが数万年前の相模川の川底だった証拠です。はっきりとはしていませんが、よーく見ると大きさの違うレキが層になっていたり、同じ方向を向いて傾いている(インブリケーションという)のがわかります。これで当時の川の流れる方向がわかります。
座間市内にいくつもあるわき水の中で、これほどレキ層がはっきり見えるところは他にありません。地下水がレキ層を通って崖から外に出てくるという典型的なわき水の仕組みがわかりますね。

 しかしレキ層が垂直にむき出しになっているというのは危険でもあります。何かの拍子に崖がくずれたりレキが落ちてきたりするのです。平成17年にも軽トラック1台分ぐらいのレキが崩れ落ちました。そのために石で作った水神様のほこらが押しつぶされてしまいました。もし人間がいたら・・
番神水のまわりはフェンスで囲ってありますが、これは神聖な場所をけがさないようにわき水を守るためだけではなく、崩れたレキでけがをしないように人を守るためのものでもあります。絶対に中に入らないで下さい。もちろん崖の上にも登らないで下さい。

崩れる前の崖。
右下に水神様のほこらが見えます。
崖のレキは層状に並んでいます。

平成17年、崩れた直後の崖。
水神様のほこらもくだけました。

5つの顔を持つ男・・じゃなくて持つ水


 このわき水はわき出してからわずか数十m流れる間に何度も姿が変わります。

 まず1番目は上に書いたレキ層からわき出した清らかな流れ。

 2番目は防火用水。プール状の水槽には水草がゆれ、大きな鯉や金魚が泳いでいます。もし近所で火事があったらここから水を取るのですね。そうしたら金魚はどうなっちゃうんでしょう?

 3番目は飲用も含めた生活用水。防火用水槽の端には水に触れられるように階段があります。水槽を通過してきた水は「飲んでみよう」とは思えませんが、昔はここから飲み水を汲んでいたそうです。お酒を造るのにも使われたとか・・・

 4番目は番神水公園の池。ここにはさまざまな生き物が生活できるように、特にトンボの幼虫、ヤゴが育つように工夫されています。といっても放っておいてもだめで、近所の皆さんがヤゴのえさやとりつく場所の世話をしていらっしゃるんだそうです。

 5番目は飲用以外の生活用水。番神水公園の池から流れ出た水は民家の横を流れていきますが、それぞれの家の前には水路に板を立てて流れをせき止められるようになっています。そこにたまった水で野菜や食器を洗っていたのは龍源水と同じです。

防火用水槽
水草、鯉、金魚が見えます。

水くみ場。
水に触れられる。

きれいに整備された番神水公園。
奥に見えるのが番神堂。

流れをせき止めているところ。

このような溝に板をはめ込みます。

今でも水を利用しています。
洗うものを置く台でしょうか。
ブロックの穴にあるのは石けん?

目印は番神堂!


 このわき水は龍源水と並んでかなり有名で、多くの人が訪れます。しかし・・・・
一部の人はまったく違う場所を見て番神水と思いこみ、そのまま気づかずに帰ってしまうのです。
小中学生の市内めぐりでは特にそういう人が多いとか・・・残念ですね。
「番神水は番神堂というお堂の横からわく」と、どの案内書にも書いてあるのですが、「番神水、行ってきたけど番神堂なんてなかったよ。壊しちゃったみたいだね。」なんて言われたらがっかり・・
なぜそんなことが起こるか?原因は道案内の石柱(せきちゅう)にあります。龍源院と番神水の間は400mほどあるのですが、この中間点、座間小の北東角から護王姫神社へ上がっていく道路に「番神水」とだけ書かれた石柱が立っているのです。知らない人はその石柱のある所を流れる水が番神水なのだと思い、(番神堂から流れてくる水ですからまったく間違っているわけでもありませんが)それを見て引き返してしまうのです。この石柱には「番神水 この北200m」とか書いてあればよかったのですが・・
これ以外にあとから立てられた石柱には方向を示す矢印が刻まれていてとても役に立っています。

この石柱が間違いの元!
ここは番神堂の場所ではありません。

こちらはとてもいい案内石柱。
お金がかかっていそうですね。


さて、このわき水には驚くべき伝承があり、また番神堂というお堂が今もあり・・・
その辺の話は後編に続くのでありました!  必見!

第30話 神井戸

2005年10月30日 00:00

第30話 神井戸

第30話 神井戸(かめいど)


県立座間高校の前の崖(がけ)からわき出している泉です。生活のために絶対必要な水を作り出してくれるこの場所を、昔の人は神の井戸と考えて神井戸と呼ぶようになったのでしょう。「かみいど」とも呼ばれますがこれがなまって「かめいど」ともいいます。
水の底はきちんとした切り石が敷き詰められていて周囲もしっかりした石段で覆われています。こんなにきれいに整備されているわき水は市内ではここだけでしょう。


水のわき出している場所にはいつのころからか水神様の小さなほこらがまつられていて、ここが神聖な場であることを示しています。これはわき水に感謝する気持ちの表れであると同時に、ここで無謀な使い方をさせない意味があったでしょう。無謀って?たとえば一部の人が自分だけのものにしてしまうとか、ひどい使い方をして汚してしまうとか・・・神様がまつってあるところではそんなことは許されない!というのが古くからの考え方ですからね。


 今でもその水は地元の人々の生活の中でいろいろなことに使われています。
まずダイコンを洗っているのを見たことがあります。土を洗い流してもそれは汚いものではありません。夏の暑い日、スイカが浮かべてありました。冷たいわき水で冷やしたスイカって、冷蔵庫で冷やすより冷たくはないはずなのに、なぜかすごくおいしいんですよね。またある時は、今では珍しい木の桶(おけ)を洗っている人がいました。何の桶でしょう?見に行くたびに違ったものを洗っている風景が見られ、なかなか楽しいです。
昔は衣服などもここで洗ったとか。特に鈴鹿明神のお祭りでおみこしを担ぐ人が着る白い着物を洗う場所だったそうです。神社の神様の前で着るものですから、神聖な水で洗い清めたのですね。


 でも最近は本当に「いろいろなもの」を洗っています。ゴム長靴が水に沈めてあって汚れがふやけた頃ごしごし洗い出したり、平日のお昼頃や日曜日などは自動車を泉の横に止め、バケツで水を汲んでばしゃばしゃと車体を洗い出す人もたくさんいます・・・ありゃりゃ・・ここを大切に守ってきた人から見ればちょっと残念なことかもしれません。でも飲み水としては使われなくなっている今、自動車ぐらい洗ったっていいのかもしれません。まめこぞうは何とも複雑な心境です。
先日はフジテレビの「きょうのわんこ」で、犬が毎日この泉に入って遊ぶのを楽しみにしているという話が紹介されました。神の井戸に犬がジャバジャバ・・うーん、犬が好きな神様かもしれないしなぁ。人間の子どもがジャバジャバ入ったら?それはほほえましい光景でしょうか?やっぱり水を汚しちゃいけないと注意すべきでしょうか?うーん・・・

神井戸坂


神井戸の横からガケを登る小さな坂道で、台地の上に住む人々が水をくみ上げたり、田から稲を運び上げるのに利用したので「水くみ坂」「稲あげ坂」とも呼ばれていました。
今では座間高生の多くが通学につかう道になっています。つい数年前までは江戸時代と変わらない切石を並べた薄暗い感じの階段だったのですが、最近コンクリートのきれいなものに生まれ変わり、手すりもつきました。
この坂の上の細い道は古い鎌倉街道です。座間高生は登り切ってから左に折れて座間駅に向かいますが、その途中には昔ながらのお墓が・・・座間高生はここを「お墓道」と言うんだそうです。卒業してもきっとこの坂とお墓道のことを一生忘れないでしょうね。部活動で帰りが遅くなったときはけっこう怖がる人もいるとか・・・
出ないとは思いますが・・出たらまめこぞうに教えて下さい。すぐ会いに行きます。

まめこぞう

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